八木透『日本の民俗信仰を知るための30章』

日本の民俗信仰を知るための30章

日本の民俗信仰を知るための30章

  • 作者:八木 透
  • 出版社/メーカー: 淡交社
  • 発売日: 2019/05/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 タイトル通りの本。仏教雑誌に連載された記事をまとめたもの。京都を中心とした民俗儀礼を、春夏秋冬季節ごとに整理している。京都が拠点の人だけに、京都の記事が多い。
 大学時代は京都にいたわけだけど、こういう民俗儀礼の時期って、テスト期間か長期休暇の期間が多くて、意外と行ったことないんだよね。祇園祭も、人混みの中行き帰りするのが大変そうだったし。


 こうしてみると、人が往来する京都では、春先から初夏の疫病を回避することが大きな課題だったのだな。祇園祭だけではなく、今宮神社の「やすらい祭」とか、「夏越祭」とか。全国に祇園祭が分布しているように、人が往来する場では、疫病は恐怖の的だったのだろうなあ。
 中世の「風流」の名残としての、祇園祭の傘とお囃子という話も興味深い。


 夏場の祭として、京都の北の山々には、火祭りがたくさん残っているというのも興味深い。私などは、こういう荒っぽい火祭りは、火が怖くて参加できないだろうけど。戦の神から、火の神になった愛宕社の神様。そして、それに関連する火祭りが、現在も伝承されている。


 秋以降のお祭りに関しては、京都以外の事例が多い。津軽岩木山信仰、長崎くんちなど。節句に関する記述も多く、前近代には、生活の隅々まで、信仰が入り込んでいたのだな。科学が発展して、疫神や「厄」といった概念も、切実さをかなり失っているが。

 現代のくらしから失われた悔過の精神
 かつての人々は、年末年始、さまざまな方法を用いて、懸命に自らの罪やケガレを祓うことに努めた。ところが今日では、多くの人が自らの罪やケガレを省みることもなく、ただ新年の初詣でさまざまな現世利益を祈願するのみである。それはすなわち、現代社会のくらしのすべてにおいて、回顧や内省といった心情を改めて意識する機会があまりにもなさ過ぎることが原因ではないだろうか。先人たちが伝えてきた「大祓」や「悔過」という、現代社会とはまるで縁のないような営みこそ、今日を生きる私たちがその意味を深く再考し、少なくともそれに代わる、何らかの内省の機会を持たなくてはならないのではないかと思う。p.163

 そもそも、超自然的存在とやり取りをミスると、災厄を引き起こすという切実さが、現代ではなくなっているよなあ。災異は、制御可能か、制御不能のどっちか。デジタル的な感覚になっているのはあるねえ。まあ、科学的な世界観からは、なんかやっても意味ないわけだけど。