脇田晴子『中世京都と祇園祭:疫神と都市の生活』

 中世、特に鎌倉期以前の時代を中心に、祇園祭とその信仰のあり方の変遷を描いている。トピックを変えつつ、時代順に記述される。密度が高い本。正直、ちゃんと理解できているかというと、心もとない。宗教史とか、芸能史は、前提とする知識があまりに貧弱で。これが、元は中公新書というのがすごい。
 大まかには、王朝の祭礼から、都市住民が主導する祭りへの変化といったモチーフと考えればいいのかな。
 しかし、祇園祭って、神輿渡御と山鉾巡行と事実上二つの祭りの複合体なんだよな。最近まで、よく分かっていなかった。京都に居たころは、ちょうど祇園祭のころがテストシーズンで見にいくどころじゃなかったけど。日中に、山鉾をのぞいたことがあるだけだな。


 第1章は、祇園祭の起源。王朝国家の首都として、人口が密集する京都では、疫病が深刻な問題となっていた。王朝主導の御霊会から、牛頭天王の祭礼への変化。祇園社は920年代には存在したけど、それが牛頭天王の社だったかはよくわからないということかな。


 第2章は、御旅所の成立から、祭礼の形が整ってくる。
 王朝の疫神除けの儀礼と同時に、都市住民の祭礼としての性格が出てくる。疫神を早く追いやりたい王朝側と留めて守ってもらいたい都市住民の側のぶつかり合いと妥協点としての神輿渡御。都市住民の要求を汲み取って自宅を御旅所として寄付。神主に納まる助正。独自の信仰を持っていた婆梨采女の意義。貴族たちの寄付によった馬長から、京中の富裕者に金を出させて馬上十三鉾を出す馬上役と、祭礼の運営主体の変化。さらに、馬上役が忌避される、住民の熱意の低下。
 都市の住民が田楽に熱中する永長の大田楽の行も興味深い。


 第3章は、祇園会の性格の変化を明らかにする。
 御霊会の時点では、「疫神」をもてなして、境界の外に送り出すものだった。これが、牛頭天王祇園会では、疫病から守る神へ。蘇民将来説話の分析から、牛頭天王の性格の二面性をあらわにする。身を正しくする人間を疫病から守るが、ちゃんと神を祀らない人間には容赦なく祟る。そういう神観念。さらに説話が、さまざまに解釈されていく。吉田神道のフリーダムなスサノオとの習合。牛頭天王がどこから来たかという話はよく理解できなかった。


 第4章は、鎌倉時代あたり。祭礼を支えた人びと。
 財政面から支えた神人たち。堀川材木神人や綿本座、摂津今宮の蛤売りによる大宮駕輿丁など。神社に奉仕する代わりに、京都内での営業の独占などの特権を確保する。神社の運営そのものにも、大きな影響力を持つ。堀川の材木商人って、近世だと、西高瀬川が掘られて、あの辺りが荷揚げ場になってたんだなって感じだけど、この時代にはまだないんだよな。どこから木材を搬入したんだろう。上流からは無理だから、下流から。淀川水系を利用したってことなのだろうか。
 神の宣託を仲介する巫女。中世には、祭礼や信仰上、強い立場を維持していた。さまざまな宗教行為を行い、かなり儲けていたらしく、座を作って営業をコントロールしていたらしい。女性の力が後退して、男性が主導権を握る姿。女人禁制は、歴史的に見れば、比較的最近導入された考えであるそうな。
 神輿の列を先導する犬神人、獅子舞、久世舞車など、芸能で奉仕する人々。周縁的身分の人々まで網羅する。


 第5章になって、やっと現在に近い山鉾が登場。
 地縁的共同体である「町」の出現と関連付けられる。南北朝の頃には、既に出現していて、神輿渡御が行われないときも、山鉾の巡行は行われている。自立性の高い祭礼。応仁の乱で焼失するが、その再興の段階で、現在につながる山鉾が出現しているというのも興味深い。
 職能的な座が出す山鉾も存在したが、応仁の乱以後は再興されず、地縁的共同体の中に発展的に解消していくと。


 以下、メモ:

 ところが、いつしか神輿を流さずに、御旅所をつくって安置するようになる。これは鎮送するものとしての疫神の観念が、そこにとどまって、自分たちを守ってほしいというかたちに変化していったといえるであろう。その神観念の変化については次章で詳述したい。
 疫神なるがゆえに、朝廷は洛外で祭ろうとし、京中で祭ろうとする都市民との対立・妥協が、この祭り形式になったとする説(五味 一九八四)もあるが、その基底には、神観念の転化があると思われる。したがって、本来「追いやろうもの」として河東の地に追いやった疫神と、市中に安置したいという町の住民たちの要求、その反対の要求の疫神を早く送り出したいという両者の妥協点、それが普段は河東の地にとどまっているが、一年に一度は御旅所に臨幸して、歓迎を受けて、町の人々の生活を守るという祭礼形式になったといえよう。
 このように町の住人たちの、疫病から自分たちの身体や生活を守りたいという要望、そのための疫神信仰をたくみに汲みあげて、その信仰の中心センターとなる御旅所を作っていった人、それが助正であった。のちの時代に起こる助正子孫と祇園社との神主職任命をめぐる争論から、御旅所成立の経過を具体的に解明された瀬田勝哉氏が、「御旅所は在地の祭礼センター」と指摘されているのは、まったく賛成である。p.28-9

 疫神の観念の変化と、それに伴う対立。さらに、それを汲み取って、在地の信仰センターが出現する姿。

 現在の祇園の山町・鉾町といわれているのは、中世の町共同体の結合の祭りとなっていった山鉾巡行の町々であり、下京の町組として結集した町々の自治都市としての記念碑となっている。それ以前に存在した二条や上京の大舎人などの山鉾は、応仁の乱以後、廃絶してしまった。少将井御旅所の近辺は、御霊社の氏子地域となっている。その上、近世以来、四条京極の御旅所に一本化してしまった。婆梨采女祭祀の独自性は失われたといってよい。婆梨采女は、牛頭天王の妻として、八王子神輿とともに、家族神の一つとして、渡御してくる存在にすぎなくなった。それは祇園祭山鉾巡行が女人禁制の祭りになっていくような時代傾向と、軌を一にしている。中世にあった婆梨采女や少将井御旅所の信仰は、忘れ去られた、もう一つの祇園祭を示しているのである。p.32-3

 半ば、独自の信仰圏を持っていた婆梨采女神。それは、近世初めあたりに、失われてしまったと。

 天皇行幸のゆえもあって、少将井の神輿の動静が公卿たちの日記にしきりに記されるようになった。しかし、それだけではなくて、少将井殿、すなわち、婆梨采女は霊異のある神と思われていた節が強い。公卿の日記を見ると、婆梨采女が「動揺」したという。建久二年(一一九一)には、本社内陣西間に置かれていた婆梨采女の御正体が上長押より落下した。同七年にも動揺し、承元二年(一二〇八)には、大飛礫を打つように鳴動したという(『続左丞抄』)。
 これは感神院所司から言上したものが官務壬生家の文書に残ったものである。源平争乱から鎌倉初期にいたる二十五年に集中しているから、やはり動乱期の世相を反映してものであろう。「婆梨采女の動揺」というものが、何を表現しているのか、極めたい問題である。p.38

 霊異ある神としての婆梨采女

 たしかに松尾祭は、それに続いて六月はじめから高揚してくる祇園御霊会を契機としてはじまる大田楽の前哨戦ともいうべきものであった。そして、禁裏朝廷をはじめとして、「院宮諸家」と称される院・女院・宮たちや、高位高官の家々に仕える人たち、また社寺の神人・寄人とよばれた人々、これらの人々が京都の住人の主要な部分を構成していた。その人々が、はやりの童謡に神の啓示を聞いて、禁令を犯して祭礼に乗り出す。そしてあっという間に、その高揚は人々を興奮の坩堝に追い込んでゆく。民衆の声なき声が、神の啓示として顕現化して、社会的興奮を沸き起こすのである。たしかに屈折した、しかも華々しい弱者の抵抗の手段であった。施政者が政治的な凶事の前兆と見たのも故なしとしない。高取正男氏は、古代末期、新しい中世の社会秩序が未成熟であった時期に、「価値の転倒を含む宗教的高揚が、諸矛盾の鬱積した社会全般の精神的カタルシス(浄化作用)の意味をもってしばしば突発した」としている。p.50

 永長の大田楽。江戸時代の伊勢参りあたりとも、つなげられそう。

 室町・戦国時代というのは、戦国乱世ではあるが、津々浦々、村々町々の庶民の共同体が力をもってきて、自分たちの権利を主張するために、自分たちの祭ってきた無名の共同体祭神の神格を高めて、近在の村や町や、支配を強化しようとする領主権力に対抗しようとする風潮にあった。そのなかで無名の地域の神々が、皇室祖先神に習合していく傾向も多かった。p.114

 熊本市の東部なんかには、菅原神社が多いけど、これも元は「天神」だったそうだから、意外と牛頭天王とのかかわりが大きかったりして。

 文禄四年(一五九五)ころの記録では、「神子」の仕事・収益は、神楽の奉納、富(富籤?)、守りや牛玉宝印の販売、諸国への旦那(信者)歩きによる「初穂代」、洛中のうぶ子(産児)の命名による「初穂代」、太刀かたな、絹綿などの謝礼で、収益は莫大だといわれている。現在のように単に雇われて、神楽などの仕事に従事するのではなく、仕事のすべての収益は巫女たちの配分であり、その一部を社家や別当という上級領主に得分としてささげるという組織であった。p.132

 独立宗教者としての巫女。