北村優季『平安京の災害史:都市の危機と再生』

 平安京の設置から院政期にかけて、平安京を襲った災害から、平安京の都市構造の変化を明らかにする。災害の社会史というか、都市史というか、そんな感じの本。飢饉・洪水・疫病・地震・火災の順番に。やはり、都市の災害としては疫病と火災が頻度も被害も大きいのだなと。
 飢饉に関しては、古代の末期あたりから寒冷化が進み飢饉が起きやすくなったこと。飢饉で食べられなくなった人々が、貯えがある都市へ流入し、そこで亡くなる状況。また、源平争乱期には、京都への食糧の供給が途絶え、結果として京内で飢饉が発生した状況が描かれる。
 続いては、洪水。平安京の時代から、鴨川や桂川の水害に悩まされてきたこと。特に中心部に近い、鴨川の洪水に関しては、朝廷が関与を続けた状況。しかしながら、古代を通じて有効な治水は行われなかったという。また、11世紀以降は、「河原」が宅地として開発され、結果として水害による死者を出すようになったことが指摘される。
 疫病は、都市の災害としては一番重要なものであった。記録から疫病に関しての記載を拾い出すと、20年に一度程度の頻度で、何らかの疫病が流行していたという。天然痘赤痢、「咳逆病」といった類の疫病が流行したという。海外から広がった例が多かったようだ。疫病に関して、古代の人々は神や悪霊の祟りと捉え、流行時にはさまざまな祭式が行われた。貞観の御霊会にみられる御霊信仰から、10世紀末以降、疫神信仰へ変化していく状況を描く。今宮社や祇園社などが、疫病よけの信仰として始まった。
 地震に関しては、頻度が低かったせいもあり、あまり関心が寄せられなかったという。むしろ、兵乱の予兆として捉えられたという。礎石建築の柔構造で、意外と地震には強かったが、むしろ強風に弱かったという指摘も。また、庶民の住宅は非常に簡単なものだったため、地震が起きて、家が崩れても、圧死者は意外と少なかったと指摘されている。
 最後が火事。密集した都市では火災はつきものだが、早い段階の火災では大路や小路などの道路が広く取られていたため、それが防火帯の役目を果たし、坊単位での被災に留まったこと。しかし、11世紀に入ると、平安京の東北部に人家が密集し、道路が狭められたこと。盗賊による放火は頻発し、広範囲に延焼することがたびたびあったという。
 全体として、10-11世紀に都市の構造が変化することが指摘される。


 以下、メモ:

 さて、このような気候の変動は、科学技術が発達していない古代社会の村落には、想像以上の影響を与えたと考えられるが、それは時として村落の消滅につながることもあった。たとえば、全国の村落遺跡を分析した坂上康俊氏によれば、千葉県八千代市の村上込の内遺跡、東京都八王子市の中田遺跡、そして長野県千曲市の屋代遺跡などの東日本の村落遺構が、いずれも一〇世紀に廃絶しており、古墳時代以来続いた村落がこの頃に時を同じくして消滅していたことが明らかにされている。このうち、下総台地の段丘面に位置した村上込の内遺跡では、合計一八〇棟の竪穴住居、三〇棟の掘立柱建物が検出され、五つほどのグループを構成していたらしい。今日から見ると、ずいぶん規模の大きな集落のように見えるが、しかしそれも、八世紀から始まって約二〇〇年間で消滅したらしいのである。京都や奈良のような都市だけを見ていると、集落が継続するのは当たり前のことのように感じられるが、しかしそれはごく一部の例外にすぎない。小さな地域に着目すれば、日本の歴史の中では、集落全体が誕生と消滅をくり返してきたのである。
 一方、九州や畿内などの西日本でも、古墳時代以来の集落が平安時代になって姿を消す例が多い。ただ、時期としては東日本よりもやや早く、いずれも九世紀に多くの村落が消滅したとされる。そしてこれらの地域では、一一世紀頃に再び新たな村が誕生し、それが中世の村落として継続していったことが、発掘調査によって浮き彫りにされてきたのである(坂上康俊『日本の歴史05 律令国家の転換と「日本」』講談社、二〇〇一年)。p.20-21

 メモ。9-10世紀にかけて、集落が消滅しているという。寒冷化の影響か、地域社会の構造の変化か、どっちかはっきりしないが。