西山良平・鈴木久男・藤田勝也編著『平安京の地域形成』

平安京の地域形成

平安京の地域形成

 タイトルのごとく、平安京域内における地域社会の形成を扱った論集。読み始めるまでに時間がかかって、読むのにも時間がかかった。ずいぶん、貸し出し延長を繰り返したな。
 第一部は、「地域形成のとらえ方」ということで、平安京中心部における地域社会を、貴族の日記に出てくる「随近之人」といった用語から明らかにしたり、交差点の表記からどう認識していたかを追及している。第二部は、本書で一番おもしろいところ。右京や八条などの平安京辺縁部での、地域コミュニティ形成や居住の変遷を追う。三部は、貴族の邸宅についての研究。

西山良平平安京の「随近之人」「在地者」と住人集団」

 史料に現れる「随近之人」「在地者」といった存在から、平安京内のコミュニティの存在を検出し、貴族の近隣関係と比較するといった話、なのかな。摂関期の「隋近之人」の事例を紹介。犯罪が起こったときに、「随近之人」の証言が重要であり、同時に、関わった人々も証言を期待した。また、個別の事例から、かなり強い共同性が見られること。保司などは抱き込むことはできても、共同体全体を弄くるのは難しかったっぽい。また、犯罪時には共同で追っかけるなどもすると。
 このようなコミュニティの延長として、院政期には、土地所有の券文が失われた時などに、その所有を保証する「在地の者」というような存在が出てくると。
 一方で、貴族では、そのような近隣の交流は薄い。隣接する屋敷が盗賊に襲われても、積極的に加勢に出ることはない。下手に助けに出て、死傷すると、逆にバカにされるというのがアレだな。火災時にも、見舞いを出す程度と。


 しかし、この人の文章、ものすごく読みにくい。一段落だけ抜き出すと、こんな感じだが、正直、日本語の体をなしていないのではないだろうか…

 左近番長の神部吉仁が今夜自妻の密夫を伺い捕えるが、俄かに寅時に殺害される。舎弟男が心神を迷わし、来たり訴える。「近辺の人々(近辺人々)」が「合力して」(力を貸して援助・助勢する)密夫を捕え得る。そこで甲は乙に、早く看督長を差し遣わし、日記を立て犯人を禁じて欲しいと所望する。「昨日の御書」が今朝卯剋に到来する。乙の返書では、事由を検非違使別当に申し、官人らに触れ示して糺すべきだが、太皇太后宮が石山寺の経営に参るため、万政が遅延する。犯人は貴下に捕え禁じ、その経営の後に理に任せ糺すつもりだ(『高山寺本古往来』一二・一三)。p.6

 時制が現在形なのはそういう癖としても、この一文をとっても、それぞれの分の主体が全然分からないという。史料を直訳したのかもしれないが、正直、読むのが苦痛。これなら、史料をそのまま引用したほうが良いのではなかろうか。

安藤哲郎「平安貴族の大路・小路をめぐる空間認識:歴史地理からみる平安京の空間」

 貴族の日記に記述された交差点の記載順から、平安貴族の空間認識を解き明かそうとしている。
 東西街路の重視。南北大路は、水路となっているため、牛車が通行しにくかった可能性。南北ルートに商業空間が形成され、貴族にとってアウェイとなった可能性など、結論が興味深い。

久米舞子「平安京の地域社会に生きる都市民」

 平安京辺縁部の七条や西七条、旧右京域の西京といった地域に、住民コミュニティが形成されていった過程を紹介する。交通の結節点に、商工業者が集まり、コミュニティが形成される。コミュニティは、外部から神を招請して、独自の祭りを開催するようになる。七条が伏見稲荷、西七条が松尾大社。現在も、その祭りの伝統が続いているってのがすごいな。
 一方、下級官人の居住地でもあった西京では、独自コミュニティの発展が遅れ、11世紀の御霊会を、自己の祭りとして展開することができなかった。しかし、13世紀に入ると、北野社の神人として編成されるようになる。

南孝雄「衰退後の右京:十世紀後半から十二世紀の様相」

 開発に伴う発掘調査の成果から、右京域における居住の変化を明らかにする。しかし、平安京の境目って、ずいぶん西のほうにあったのだな。双ヶ丘の麓。法金剛院の東側あたりまで、広がっていたのか。大内裏が千本大宮だから、中心軸がだいぶ西のほうにあるんだよな。
 最初のうちは一町規模の邸宅もあったが、徐々に衰滅。居住地域は平安宮周辺、六条一坊、七条など特定地域に集中していくことになる。このような、住宅の消滅の要因として、紙屋川/天神川が、東西対称プランにするため、人為的に高所に動かされ、その水害の被害を受けた可能性を指摘する。徐々に西側に、新水路が開削されていく。一方で、何らかの土地利用が続いていたため、このような水路が維持されたことも指摘される。
 つーか、1000年たつと、相当地形って変わるんだな。そういう風に展開して行ったのかと興味深い。

 一般的には平安時代中期以降の右京では耕作地化していったと考えられている。これは、『延喜式』「左右京職」条の「凡そ京中水田を聴さず。但し、大小路の辺、及び卑湿も地では、水葱・芹・蓮の類を聴す。これによりて溝を広くして道を迫むるを得ず」という史料の存在や、左京域を中心とした日本最大の都市に隣接する巨大な空閑地となった右京は、耕作地としての土地利用がなされるのが当然だと考えられるからであろう。実際、一九六〇年台までは右京域の多くが耕作地であった。但し、右京での発掘調査で平安時代中期から後期の水田など耕作に伴う遺構はほとんど検出されていない。右京の耕作関係の遺構は素掘り溝が多いが、ほとんどが室町時代以降のものである。右京三条二・三坊の土層柱状図にみられるように、平安時代の建物跡や井戸跡などの遺構は地山(基盤層)の上面で検出され、この直上には室町時代以降の耕作土が存在するのみで、この耕作土の上面から多数の素掘り小溝が地山面まで掘削される。本来存在するはずの平安京造営時の整地層や十世紀中頃から鎌倉時代の耕作土、あるいは道祖川や野寺川の洪水層は存在しない。このことから、室町時代の耕地の整備に伴って、それ以前の整地層や耕作土、洪水堆積物などは削平によって失われ、室町時代以前の耕作痕跡が遺構として残されていない可能性が高いと考えられる。このような土層のあり方は右京域では、一定範囲で普遍的に認められることから、右京の広い範囲で同様の現象が起きていたとみられる。p.127-8

 右京域では、室町時代の耕地開発で、それ以前の痕跡が削られたと。大開発だったわけだ。

辻裕司「平安京左京域南部における遺跡の展開」

 京都駅ビル建設などにともなって行われた発掘調査から、どのように変遷していったのかを紹介する。
 基盤は鴨川の扇状地堆積物で、川が斜めに流れていた。あるいは、洪水堆積物によって、湿地と微高地が展開する地形だった。そこに、平安京の条坊が設定される。地下水位が高く、湧水を利用した邸宅が設置されていた。悲田院や施薬院の遺構、八条院領の遺構などが検出されている。
 このような権門都市の設定にともなって、商工業者が集住し、それは東寺領として継承される。
 しかし、室町時代には住宅が廃絶し、耕地化するという流れらしい。

天野ひろみ「王朝文学の中の寝殿:子女たちとの関わりを中心に」

 基本的には主夫妻が居住した。しかし、今後身分が上昇する可能性のある娘が住むこともあったと。また、結婚した場合、婿も住むことがあった。
 一方、結婚した息子は親と住むことはなかったが、後に家父長制の浸透で、「小寝殿」に住むようになると。
 また、寝殿儀礼用のコストがかかる建物だったので、火災などで失われた場合、必要があるまで長い間再建されないこともあったと。

藤田勝也「平安・鎌倉時代の織戸・織戸中門」

 木材を編んで作った「織戸」は、ランクの落ちる施設で、庶民や下級の貴族などの住宅に使われるものであった。公的儀礼などでは、問題にばる場合もあった。
 しかし、意図的に鄙びた風情を出すために、京外の遊興的な建物に利用されたと。
 こういうの一つとっても、考証して行くの大変なんだな。

鈴木久男「西園寺家北山殿の景観」

 現在の金閣寺は、最初に西園寺家の邸宅・菩提寺として、開かれた。その後、西園寺家の衰退にともなって、足利義満の邸宅、義持の破却、鹿苑寺と変化していく。
 その最初の西園寺家北山殿の復元。現在の方丈の位置に南屋寝殿、鏡湖池の北岸に北屋寝殿、南屋寝殿の東に西園寺、不動堂がある場所は密教的空間、安民沢の北に祖霊堂があったと。建設時には、不動堂の側に落差13メートル程度の滝があって、これは鷹峯あたりから、ワザワザ水路を引っ張って作っていたとか。大工事だな。割合早い時期に廃絶したのも納得できる。