熊本県立美術館「日本遺産認定記念 菊池川二千年の歴史:菊池一族の戦いと信仰」

 菊池川流域、特に中流域の菊池平野に展開した菊池一族をメインとした特別展。古代遺跡からの発掘品、菊池氏の盛衰、菊池川流域の中世仏像などがメイン。


 最初は、菊池川中流域の考古学的遺物。弥生時代から古墳時代にかけて存続した地域の中心的集落遺跡、方保田東原遺跡からの出土物。名前だけは知っていたけど、そんなに大きな遺跡なんだ。金属製品が出土しているから、分配センターだったのだろうなあ。あとは、江田船山古墳をはじめとする装飾古墳。馬具の出土が多いのだな。
 太宰府と強い関係をうかがわせる立願寺廃寺の瓦。北九州防衛の後方拠点となった鞠智城。貿易港高瀬の繁栄。11世紀から15世紀の輸入陶磁器片や、高瀬に陸揚げされて大分まで運ばれたフランキ砲「国崩し」のレプリカなどが展示。キリスト教の宣教師も上陸しているし、高瀬の中世後期の重要性は予想以上に高いんだよな。


 中盤は、菊池一族の盛衰。
 平安時代に、太宰府府官として肥後北部に勢力を伸ばし、源氏物語の「大夫監」のモデルにもなっている。しかし、前任・後任の肥後国司の対立に巻き込まれ、前任国司を殺害したことから、公的な立場を失い、後に院政と結合して地位保全を図る。
 その後、早い段階で反平家で挙兵して、敗れて、平家のもとに編成されてしまう。通説では、このため、鎌倉時代は冷遇され、これが南北朝期に一貫して南朝側にたった理由とされる。しかし、実際には、肥後の現地支配能力を買われて、裁判結果の実行を任されたり、北条一門とやり取りがあったり、冷遇されていたとは限らないという。
 鎌倉末期、蒙古襲来での活躍は、「蒙古襲来絵詞」に描かれているとおり。


 菊池氏が一番名をあげたのは、南北朝期。九州の南北朝合戦に関わる文書などが展示される。「博多日記」をみると、なんかあんまり計画的な行動じゃなかったのかなあという感じが。着到を巡るトラブルが、蜂起につながったのかな。それとも、やっぱりそもそも疑われていたのか。東国系の御家人からハブられていた感が悲しい。
 あとは、懐良親王側近五条頼元の家系に伝わる五条文書や金烏の御旗、菊池武重起請文や恵良惟澄軍忠状、今川了俊の指揮下にあった山内通忠の軍忠状は、今川了俊の進軍ルートが示されていて興味深い。


 最終的に今川了俊に降伏した後、了俊が島津、大友などと対立したため、与党勢力として重用され、繁栄の時代を迎える。室町時代から戦国時代にかけて、肥後、筑前肥前などの守護職を入手。九州の有力守護となる。
 最終的に、能運の代に、家臣団の内紛から嫡流が断絶。傍流、大友氏からの養子が入り、その最後の菊池氏当主義武が大友宗家と対立、失脚したため、菊池氏は断絶することに。
 その後は、大友氏に従属しつつ、独自性を維持する国衆たちが割拠する土地となる。そして、豊臣秀吉の時代の肥後国一揆で、その国衆のほとんども滅びる。


 熊本全体で、平安時代の史料は少ないが、熊本平野や球磨地域と比べても、少ないような気がする。菊池氏ががっちりと押さえたせいかね、熊本平野のように外部に訴訟記録が残ったりもしない。さらに、菊池氏が戦国時代に絶えているから、家の文書も失われている。厳しい。それが、菊池武朝申状の記述を正当な歴史としてしまった側面はあるのだろうなあ。


 ラストは、平安時代中期から14世紀あたりの中世仏像の展示。球磨地方が仏像の宝庫として知られるが、菊池川流域もなかなかの物量。
 個人的には菩薩や如来像の良し悪しが、いまいち分からない。
 入り口にドドンと展示してあった康平寺の阿吽像と第三室の大覚寺の木造天部立像が好きかな。特に、後者は下半身にボリュームがあるプロポーションの安定感と造作の細かさが良い。



 蛍丸写し。