文化財研修会「肥後国府の行方:近年の発掘調査成果から」

 本日は、熊本県文化財保護協会の文化財研修会に出撃。演者は熊本城調査研究センターの網田龍生氏で、内容は肥後国国府の話。部署が変わる前のお仕事だそうで。
 ここのところ、木曜日は日記休みにしているのだが、記憶が薄れないうちに、書いておこうということで。


 端的に言ってしまえば、「託麻国府」は地名に惑わされた幻で、存在しないと考えるのが妥当だというお話。益城国府・託麻国府・飽田国府の移動は考えがたいと。一方で、二本木の飽田国府にしても、ドンピシャで「これだ!」という証拠はまだ出ていないと。


 とりあえず、古代から中世の辞典類や文書類には、託麻国府という記載は存在しない。10世紀前半の「和名類聚抄」では益城郡鎌倉時代の「伊呂波字類抄」には飽田郡、同「拾芥抄」には飽田郡益城郡、中世後半の託摩文書では飽田と記載されていて、託麻郡国府があったという記録はない。


 託麻国府に関しては、1901年刊行の吉田東伍『大日本地名辞書』に「拾芥抄」に記載されているとされたのが最初。しかし、「拾芥抄」の諸写本を探しても、そのような記載は存在しない。明治の事典制作者の誤りが、引き継がれてしまった。
 また、考古学的な根拠として、松本雅明を中心にした熊日調査団による1962年の発掘調査で建物の基壇が発見されたことが重要な根拠とされている。しかし、ここ30年ほどの発掘調査では、当該時代の遺跡が見つかっていない。現在の目で見ると、調査報告書の土層の分析は誤解の可能性が高い。推定地に大型建物があったなら、地盤を強化する地業がなされているべき。ネガティブな所見が積みあがっている。
 託麻国府が存在したとされる、現在の「国府本町」は、近世初頭までは「国分」であり、読みも「こくぶ」。むしろ、国分寺由来の地名ではないか。
 二本木が国府だとすると、国分寺と距離が離れていることが不審だが、他の律令国でも国府国分寺が別の郡に立地する事例があり、事情があればそういうことがありうる。
 だいたいにおいて、根拠は論破されてしまっている感じだな。


 一方、飽田国府と比定される二本木周辺は、中世には明らかに国府が存在したこと。政庁らしき大型建物が検出されている。
 発掘された遺物が、質量ともに他を圧倒するレベルで、腰帯具・硯・文字土器・中国産陶磁器・国産陶器・瓦・製塩土器・土馬・銅印など、中心地性の高い遺物が多数発見されている。
 様々な傍証が積み上がっている。
 6世紀の春日部屯倉らしき遺跡が存在しない。政庁建物郡が8世紀中頃建設し、9世紀に入って徐々に廃絶していく。10世紀に入って、改めて、祇園社や藤崎八幡宮といった国家とつながる神社が勧請されるといった展開が見られる。


 益城国府に関しては、駆け足で触れただけ。
 「和名類聚抄」に益城国府があると言う記述があり、9世紀後半から10世紀頭の状況を示している可能性。宮地遺跡群や沈目遺跡といった候補となりうる遺跡が存在する。


 熊本平野の発掘成果を勘案すると、7世紀末ごろには、菊池郡鞠智城が最初の国府であった。その後、8世紀半ばから9世紀半ばには、港湾による水上交通を背景として、二本木の地に飽田国府が設置される。しかし、律令制の混乱や気候変動によって、9世紀後半には二本木国府は廃絶。益城郡の舞原台地上に一時移転。その後、10世紀に入って、改めて、二本木に国府が移転してくるという変遷像を紹介する。
 これはこれで、おもしろい展開だな。


 8世紀の肥後統治における建部氏の存在意義というのが気になるな。肥氏の扱いがどうだったのかも含めて。
 10世紀前半には、熊本平野全域で既存の遺跡の人口が減少。二本木や大江遺跡はほとんど廃絶。一方で神水地域では遺跡が存続したってのが興味深いな。