市大樹『飛鳥の木簡:古代史の新たな解明』

 奈良文化財研究所で木簡の整理に従事した著者が、木簡の解読から、どのようなことを解明できるのかを述べた本。大体、7世紀後半から8世紀初頭、倭国政権の中枢が飛鳥にあった時代を扱う。実務に使われ、簡単に廃棄された文字史料だけに、後代の編纂史料からは明らかにできないディテールが興味深い。一方で、断片や削り滓が多く、読み解くのは大変そうだなと。いきなり釈文を示されても、何がなんだか分からないなと。逆にいえば、記紀の読解など、研究史に読みが制約される側面もあるのだろうな。
 最古の木簡、改新の詔の信憑性、王宮や工房、飛鳥寺の活動、藤原京の建設、大宝律令の施行の七つの問題について、述べられている。
 第一章は最古の木簡について。現在のところ「最古級」は640年代であること。誤記の問題や後になって書かれた年号の可能性など、年号が書いてあるから即その年であるとは言い難く、簡単には決められないというのがよく分かる。文字が書いてある木簡を、C14年代測定法で調べるわけにもいかないしな。670年代の天武朝になってから木簡の利用が急増するというのも興味深い。
 第二章は「大化の改新」について。後代の文章でないかという疑惑が指摘され、「郡評論争」が展開され、「阿波評」木簡の出土で決着がついたこと。しかし、国郡里制に先行する評や五十戸と記した木簡の検討から、部民制度ではなく、集落単位の「里」の存在が検出され、「改新の詔」に表明された政策が、7世紀後半に志向されていたことが指摘されるようになった。まあ、この場合の木簡の貢献は、最初の政策表明から実際に制度が整えられるまでのディテールが明らかになったことだと思うが。あとは、国郡里制に向う政策の地域差などが検出できるとさらに研究が豊かになるなと思った。
 第三章は王宮の状況、第四章は飛鳥池の国営工房について。石神遺跡や浄御原宮跡周辺から出土した木簡によって、それらの地域に、分散的にさまざまな役所が展開していたこと。その場所にどんな役所があるか、ある程度候補を絞り込める状態ってのがすごいな。また、飛鳥池遺跡出土木簡から釘の大量生産が行われていたこと。製鉄に木簡が偏っていること。木簡に出てくる氏族名から、蘇我氏の配下にあった葛城系の工人を王権が吸収して、配置した工房であることなどが判明する。
 第五章は飛鳥寺の活動について。道昭系統の東南禅院と飛鳥寺の中央機関である三綱組織の並存。飛鳥寺の宗教活動や市場での取引、医療活動、学問活動などが紹介される。漢文の発音やローカライズなどで、朝鮮半島の文化的影響が非常に大きいというのが興味深い。漢字の発音も「古韓音」という朝鮮半島の読み方が七世紀末まで大きな影響を持っていたこと。それが八世紀になると消えていくという。ここにある断層みたいなのが興味深い。また、万葉集にでてくるような歌の断簡らしきものも出土しているそうだ。
 第六章は藤原京について。木簡や遺構から、藤原京の建設が長く続いたこと。これをもとに日本書紀の読み直しが行われたこと。中枢部は建設が遅れたこと。最終的には、建設を打ち切って、より中国の都城に近い平城京の建設にスイッチされたことなどが指摘される。衛門府不比等邸など、藤原京内の紹介も興味深い。
 最後は大宝律令の施行の影響。宮廷の門で、物資の搬出時などに発給された通行証の変化から、最初は大宝律令施行という古代国家の一大変革に気負って、制度が運用されたこと。しかし、中務省で許可を受け、門司に提出、衛門府で帳簿作成というプロセスがあまり煩雑だったので、数年で簡略化されたプロセスが検出されている。
 木簡という同時代の実務史料の出現によって、どのように動いていたのか、細かいディテールが検出できるようになったのは大きいなあ。それによって、記紀の記述も相対化できるようになると。


 以下、メモ:

 六七一年、唐は新羅攻撃への支援を要求する使者を日本へ二度送ってきた。その最中の一二月、天智天皇は波乱に満ちた生涯を終える。翌六七二年五月、唐からの二度目の使者に対して、日本は喪中を理由に、ひとまず大量の武器(甲冑・弓矢)と軍事物資(?・布・綿)を渡し帰国させた。しかし、いずれ唐から軍隊派遣要請の使者がくるのは必定で、日本は徴兵作業を進めざるを得なかったはずである。こうしたなか、六月に壬申の乱が勃発する。近年の研究では、壬申の乱大海人皇子が勝利した理由は、大量の対新羅派遣用の兵をいち早く自己の軍内に取り込んだことによる、という見方が出されている。p.�睫

 へえ、国内政治が、国際情勢に強く影響されていたのだな。そして、外征用軍隊をいち早く自陣営に引き入れた側が勝利したと。

 しかし、木簡は古代に限定されない。中世・近世の木簡はもちろんのこと、近代・現代の木簡も存在する。現代の木簡の一例をあげると、徳島県の観音寺遺跡で出土した「命札」がある。小学校でプールに入るとき、首につり下げた名札である。体育の授業が終わると所定の場所に戻させ、安全を確認するのに使った。この命札には、地元の小学校の名前と学年、生徒の名前が書かれており、一九五〇年代のものであることが判明している。p.4

 へえ、おもしろい。子供の安全確認のための工夫。しかも、ちゃんとどう使われたか確認したんだ。

 しかし、サトの名称に大きな変化はないが、六九〇年に庚寅年籍が作成されていることから、その前後でサトの中身は相当違っていた可能性がある。そこで注目すべきは、前年六八九年六月の浄御原令の施行を受けて、閏八月に戸籍の作成を命じる詔が出されていることである。この戸籍作成は翌六九〇年にも継続して実施され、庚寅年籍となって結実する。六八九年閏八月の詔では、正丁四人あたり兵士一人をとるように指示している。七〇二年御野国戸籍をみると、一戸あたり正丁三〜五人で、兵士一人を負担する事例が多い。つまり、一戸から一兵士を出せるように調整されているのである。その出発点は庚寅年籍と考えられる。こうした戸を均等化する作業は、サトの再編成にもつながったはずである。p.68

 再編成が行われたなら、それは集落の外形にも影響していそうだが。この時代の連続的な集落遺跡の発掘事例ってどの程度蓄積されているのかね。

 以上のとおり、三川・三野国の仕丁関係木簡は群を抜いている。仕丁は出身地別にまとまった集団を形成して仕事を行い、生活費となる養米が地元から送られる構造をとっていたことによろう。未知の世界である飛鳥の地に送り込まれた仕丁であるが、同郷者が身近にいたことは、多少なりとも心に安らぎを与えたことであろう。p.101

 国とか、郡単位で編成されていたんだな。

 六〇〇年以後も、激動のユーラシア情勢のなか、日本と朝鮮半島との交渉は依然として活発であった。六六三年、日本は百済を救援すべく唐・新羅と戦火を交え、大敗を喫した。白村江の戦いである。六六八年に唐と新羅高句麗を滅ぼすと、今度は朝鮮半島の統一を目指す新羅が唐との対立を強める。新羅と唐は日本との連携を模索し、日本が最終的に選んだのは新羅であった。その結果、六七〇年から七〇一年まで遣唐使は派遣されていない。これと対照的に、新羅と日本との間では頻繁な使節の往来があった。つまり、天武・持統天皇の時代は、主に朝鮮半島に出自のある渡来人の子孫、白村江の敗戦による百済からの亡命人、そして新羅との直接交渉を通じて、国づくりが進められたのである。
 ところが、七〇一・二年の遣唐使の任命・派遣は、こうした方針を大きく転換させる契機となった。これまでは主に朝鮮半島を媒介として中国の諸制度を摂取してきたが、同時代の中国(唐)により直接的に向き合うようになるのである。p.235-6

 朝鮮風から唐風への変換か。どういう背景があったんだろうな。