黒岩俊郎他編『日本の水車』

日本の水車

日本の水車

 1980年に出版された、水車研究の本。前半2/3は当時残存していた水車の報告、残りは水車の歴史の記述。とりあえず、日本の水車の歴史に関してはこれがよく参照されている模様。
 しかしまあ、1980年から30年で、生き残った水車はさらに減ったのだなと。この時点でも、かつての動力文化の残滓に過ぎなかったわけだが。集落で共有していた精米・製粉水車などが、リプレースされずに解体されていった。グーグルマップのストリートビューや検索で追っかけてみたけど、ほとんど生き残っていないようだ。朝倉の三連水車なんかは本当に幸運な事例なんだな。群馬県渋川市の旧赤城村村域に7基ほど存在した水車は現在はすべて撤去されたようだし、栃木県の旧今市市の杉線香用の杉粉水車はこの時点では10基ほど存在したようだが、現存は1-2基程度となっている。
 あと、興味深いのは大阪近辺。水流と落差を得られ、交通の便の良い生駒山地西麓や金剛・岩湧山系の北麓に多数の水車動力の工場が立地し、伸銅業などが発展したそうだが、現在もここは昔は水車を使っていたんだろうなといった工場が山中に立地していて興味深い。東大阪市の出雲井町には伸銅所が一軒だけ残っているし、上石切の辻子谷には漢方薬の製薬企業が何件か残っている。地道に聞き込みをすれば、往時の状況を覚えている人もいるかもな。というか、そういう場所に生き残ってきた工場そのものが興味深い研究対象といえるかも。千早赤阪村から岸和田市の山中にも、それっぽい工場が散在するな。
 北海道の澱粉生産のための水車も興味深い。


 第二部、第三部は日本における水車動力の利用の歴史。前者は日本における水車動力の発達について、後者は水車利用の衰退を扱っている。日本の水車動力は610年に朝鮮半島から伝わっているのに、結局朝鮮半島に根付かなかったってのは皮肉な話だな。平安末に宇治近辺に確実に水車が存在し、戦国期にはそれなりに普及しつつあったようだ。本格的な展開は近世に入ってから。油絞りの水車が関西地域に広がる。また、灘の酒造業に近辺の精米水車が重要な役割を果たしていたことが指摘される。この地域の水車は一台で、100-150の臼を動かしていたそうで、そうなると相当の規模の施設になるよなあ。どんなものだったのだろうか。桐生の絹糸撚糸に水車が多用されていたというのも興味深い。近世にも、ある程度水車の工業利用が存在したと。このような実績の上に、近代の軽工業の水力利用があるんだろうな。長野県あたりの絹織物や中部地方のガラ紡などの。
 第三部は近代に入ってからの展開。水車は、むしろ明治末から大正あたりが最盛期であり、さまざまな工業に利用された。明治から昭和初めの統計として、「共武政表」「農商務統計表」「工場統計表」などを利用して、経年変化を論じているのがおもしろい。ただ、数値の変動の大きさを見ると、どこまで信用できるのかというはのはネックになるなあ。小規模の工場だと蒸気機関は動力として大掛かりすぎて不経済だったのだろうな。中岡哲郎の『日本近代技術の形成』によれば、明治初期には安定して蒸気動力を利用すること自体に苦労したようだし。水車動力が競合したのは、電動機だったのだろうな。また、農村でも水力から他の動力源に転換していく動きが昭和あたりから見られたそうだが、発電が盛んな新潟あたりでは電動機、岡山では石油発動機、北陸では螺旋水車と地域性が見られたというのも興味深い。もっと長いスパンで見ればディーゼル動力に取って代わられていくんだろうけど。


 以下、メモ:

 堀川の流水量が平常のときに、ここの三つの車の回転スピードを測ってみた。柄杓一個の容量は各車共通の八・〇四リットル(四・四六升)であるから、各車の汲水能力はすぐ計算できる。
 これを、一回転に要する秒数‐一回転の汲水量‐毎分ごとの汲水量……の順で表示してみると、
 上車は一五秒‐三八六リットル‐一五四四リットル
 中車は一〇秒‐三五四リットル‐二一四四リットル
 下車は八秒‐三二一・六リットル‐二四一二リットル
という数字が出る。あわせて毎分六一〇〇リットルという計算になる。ドラム缶約三〇本分というわけだが、実際には柄杓からのこぼれ水や樋からの漏水もある。一五%ぐらいは差し引かねばなるまい。
 いずれにせよ、いちばん小さく柄杓の数も少ない下車がトップの稼ぎをしていることになるわけだ。p.8

 朝倉の三連水車の話。へえ、いちばん小さい車が回転速度が速くて、汲水量が大きいんだ。

 すでに述べたように、南河内の水車業はむしろ近代に入り鉄道輸送が発達してから盛んになってきたのである。すなわち明治三一年に高野鉄道が、大阪市中から河内長野まで開通したことにより、原料と製品の輸送が円滑に行なわれるようになった。現在も加賀田川で水車製粉業を営んでおられる五味田昇一郎氏の先々代は、明治一八年にこの地で創業されたが、川筋一帯に水車が並び盛んになったのは、河内長野まで汽車がくるようになってからであったと指摘されている。代表的な近代技術の鉄道輸送をてこに。近世の技術であった水車業は衰微することなくますます発展したのであった。産業発展の過渡期には、近代技術と伝統技術が相補い、ちょうど車の両輪のように進行していくケースがわが国の近代化の過程でしばしば見受けられる。p.45

 鉄道輸送と水車業の関連。まあ、イギリスあたりでも、蒸気機関は工場の動力としてよりも先に、輸送機関を変革しているんだよな。のちのちまで、水車動力は生き残っていたし。