平岡昭利編『水車と風土』

水車と風土

水車と風土

 現存する水車を紹介している本。最初は対談形式で、水車の歴史やどのように利用されていたか、水車大工についてなど。近世には水田への揚水や精米製粉などに利用されていたのが、近代に入り、製鉄の送風や繊維産業の機械駆動に利用された。また、おもしろいところでは線香に利用する杉の葉や陶磁器の粘土、和紙用の楮や三椏を粉砕するなど、粉砕用には細々と利用されているようだ。
 残りの大半は、各地に残る水車の紹介。2001年刊行と比較的新しい本だけに、今でも確認できる水車がいくつかある。つーか、ネット地図とグーグルストリートビューすごいな。まあ、ストリートビューは山間部なんかは走行の密度が低いけど。あと、福岡県朝倉市の三連水車とか、東京都三鷹市の新車、群馬県みどり市の野口水車など、文化財として公的に支援されている水車が多いのも印象的。実用の動力として維持するのは、もう限界に近いのだろうな。取り上げられている水車は岡山、中部地方、関東のものが多い印象。九州の水車は、別の書籍で紹介したからということで、朝倉の三連水車のみ。
 富山平野の螺旋水車や大阪府島本町尺代のエボナイト粉製造水車、瑞浪市の陶磁器用粘土のトロンミル水車、矢作川流域のガラ紡水車などが興味深い。


 場所が詳しく紹介されているものはストリートビューやヤフー地図で場所を特定することもできる。まあ、幹線道路からは隠れて見えないパターンが多いけど。


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 この水路の下流には二連水車が二つある。

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 倉敷市の北、旧東高梁川分流点から取水する農業水路に残る揚水水車。まとまって残っているのがすごい。
 この橋の上下流にいくつが稼働中の水車と、使われていない水車の架台が見える。

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 こちらは架台のみ残る

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 下流(東方向)には現用と思しき水車が。

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 共和林業の製材水車の紹介。ストリートビューでは、建て物に隠れて見えないが、現在も稼動できるようだ。梶並.共和林業の水車製材 / menpei channel は2012年に投稿されているから、この時点では元気に動いていると。しかし、音がすげえな。


 エボナイトという加硫ゴムを粉砕して粉にする水車。現在も一台のみ稼働中のようだ。他にも残骸を見ることができる模様。隣の大山崎までは行ったことがあるけど、ここまでは行ったことがないな。当時知っていれば…
 地図上で見ると、現在動いている水車はここかな?
おーちゃんとゆかいな仲間 水無瀬渓谷と尺代
おおさか環状自然歩道(尺代→大沢)? - 白文鳥ピピme物語 -
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 矢作川流域には水車を動力とした小規模な紡績工場が林立し、現在でも堰堤等の遺構を見ることができるらしい。本書で紹介されている工場のうち小野田和紡績工場は解体され、設備は岡崎市美術博物館に移されたらしい。加藤洗三ガラ紡績工場跡のほうはまだ建物が残っているようだ。水車は豊田市近代の産業とくらしの発見館に行ったようだ。
三河ガラ紡の遺産
日本の工夫?三遠南信の産業遺産〜水力の利用の智慧を伝える [?-2美しく確かな村づくりの脱成長とは?]


 先日メモした天野武弘「生きている水車製材 −天竜市の大谷製材所−」の場所。水車は稼動していないどころか、なんか工場そのものが稼動していないような感じだが。この近辺で製材所らしき所は他に見当たらないし。廃業してしまったのだろうか、森に沈みつつある。

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 何基か残っているらしい。そのうち一つはびりゅう館というところに移設されているようだ。もう一基はストビュー車は通っていないが、写真の投稿がストリートビューで見られる。


 以前にも紹介したが。ストビュー車が入り込んでいないのが残念なところ。
三鷹の水車「しんぐるま」
みたか水車博物館の水車動態保存


 もともと大間々町の中心部にあったものを移設保存したらしい。


 探すのにものすごく苦労した。現役で杉の葉を粉にして線香にしている水車。このあたり高龍神社多すぎ。

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 以下、メモ:

池森 普通、日本人がイメージする水車は、縦型です。ところが世界には横型のほうが広い地域で見られます。
編集部 横になった水車が回転するんですか。
平岡 川の流れで回すのではなく、水を落として回すんです。現在の水力発電の水車タービンの原型のようなものです。p.5

 へえ。画像検索をしても、なかなか出てこないけど。

編集部 どんな場所に水車がつくられたのですか。
平岡 ひとことでいうと、「大都市周辺の傾斜地や傾斜変換線」です。
池森 水車は「都市の動力」ともいわれますからね。
平岡 そうですね、水車の発達当初は“田舎の動力”ではありません。最初に述べた水車=田園風景というイメージは、都市域で動力用電力の供給が整備され、都市で水車が見られなくなってから形成されたものと思います。
池森 江戸は百万都市ですから、水車がたくさんあったようですよ。葛飾北斎の『富嶽三六景』に描かれているのが「隠田の水車」です。現在のJR原宿駅の近くにありました。
平岡 江戸周辺には、力が強い大型の水車が多いですね。
池森 都市の食料をまかなっていましたから。おもに精米が中心で、小麦の製粉にも使われていました。
平岡 天下の台所大坂にもたくさんありましたよ。とくに生駒山の西麓にはすごい数の精米水車がありました。その後、水車の用途はナタネの油しぼりや製薬、さらに伸線(針金製造)と変化していきました。p.11-12

 大都市周辺で利用されるようになった水車。この後の灘の酒と精米水車の関係や粉食文化と水車の関係のくだりも興味深い。都市の動力か。

平岡 紡績業でも水車が良く利用されましたね。明治政府の初期のエネルギー政策は、「水利が便利なところは、なるべく水力を利用せよ」というものでした。当時、すでに蒸気の技術があるましたが、高価なこと、石炭が貴重な輸出品であり、さらに鉄道が未発達では重い石炭の輸送に限界があったという状況でした。ですから、当時の工場は山麓に指向したんです。意外なことですが、明治前期の日本の主要な工業地帯は、中部地方の織物や製糸の山麓工業地帯、次いで大阪や東京の造船や兵器の湾岸工業地帯でした。p.15

 水利の便の良いところで繊維産業が発達したと。

平岡 その通りですね。江戸時代の職人技術をもっと評価しなければ。前に述べましたが、生駒山地西麓の精米水車は、その後に伸線(針金)用に転化しました。現在、水車は使われていませんが、伸線工業は東大阪市の重要な地場産業となっています。また、水車製粉から電線製造を始めた会社にフジクラ(株)があります。玉川上水に架けた水車を動力として電線の製造を行い、現在は電線大手の企業に成長しています。伝統的な水車技術から、近代工業が形成された例といえます。p.26

 水車から近代工業へ。

 藤原式水車は現存しないが、千葉県内の東京湾に注ぐ河川を中心にいくつか設置され、このほか群馬県吉井町熊本県阿蘇町でもつくられた。熊本のものは最高傑作といわれ、二連のシラベ車を左右の水車で動かす雄大なもので、水車の直径六・六メートル、揚程一六メートル、灌漑面積五一ヘクタールであった。p.34

 そんなとんでもないものがあったんか…
 自治体史になんか載っていないかね。