田中史生『国際交易の古代列島』

国際交易の古代列島 (角川選書)

国際交易の古代列島 (角川選書)

 弥生時代から平安時代にいたる、国家間交易の歴史を整理した通史。新しい情報もまとめて、長い期間をすっきりとまとめている。しかしまあ、贈与経済が基盤にある交易関係が、どこまで、現在に通じるのだろうか。あと、この議論のフレームワークだと、どうしても「国家」が強調されすぎるような。弥生時代から営々と続いていた貝をめぐる九州南部と南西諸島の関係が、かなり後まで出てこないみたいな欠陥が見える。
 しかし、「中華」で生産される高級工芸品が、威信財として求められ、実際に政治関係を動かしていく姿が興味深い。朝鮮半島の有力者と日本列島の有力者間で、個別の贈与を通じた政治的関係が構築され、それが実際に外交に影響を与える飛鳥時代以前の姿。あるいは、奢侈品の獲得と分配が実際に政治的な力を持つ平安時代。それを制御しようと、国家による統制と、身分を通じた分配を試みる朝廷。
 物や人を通じて、意外とダイレクトに中国大陸の政治情勢の影響を受けるというのも興味深い。
 少々、読むのに時間がかかったせいか、いろいろと忘れかけているのだが…


 第1章は、邪馬台国あたりの時代。環黄海世界を通じて、中国の王権中枢と比較的ダイレクトにつながる。楽浪郡朝鮮半島南部を経て、日本列島へ。穀物と木材を輸出し、鉄を輸入。さらに、入手した鉄で生産を拡大する。あるいは、邪馬台国が、西のゲートウェイとして博多湾に「一大率」を置き、東の交流拠点に自身の拠点を置く、交易を重視した姿。
 第2章は、国家形成の時代。中国大陸で混乱の時代に突入。朝鮮半島では、国家形成が進む。高句麗百済新羅の成立と抗争。列島の王権や諸豪族は、朝鮮半島の諸勢力と個別に関係を結ぶ。朝鮮半島の諸勢力は、軍事的援助を求めて働きかけを強める。贈答が、関係構築の重要なツールであったと。
 第3章は、隋唐と中国大陸に統一王権が出現した時代。隋との接触で、野蛮国扱いされて衝撃を受けて、体制改革を行い、律令国家への道を進む日本。さらには、白村江における唐との戦争。その中で、周縁の王朝として、中国からの威信財・高級品の輸入を管理、分配をコントロールすることで、国内の政治秩序の安定を図りつつ、南西諸島や東北・北海道の社会に対しては「中華」としてふるまう日本王権の姿。
 このあたりから、文字史料の増大に相応して、記述の量が増えていく。比較的短い時代の記述が厚い。


 後半は、「海商」の時代。安史の乱による唐の弱体化、さらに新羅国内も混乱状態に陥り、交易の国家統制がゆるむ。その中で、新羅系の海外に流出した人々が、張宝高を核としたネットワークの形成。一方で、日本の王権の対応の枠組みには、「商人」というカテゴリーが存在せず、「国家の使者」「帰化人」しかなかった。「漂流者」というカテゴリーを新設して、対応。新羅出身者が活発に往還して、情報をやり取りする。また、九州北部においてのみ、銀が価格表示機能をもって流通していたこと。かなり、密度の高い往来があった傍証。
 平安時代に入ると、「文明化政策」が進められ、その文明の源たる中国の高級工芸品の重要性は、さらに高まる。これらの品を集め、誇示することが、政治的に重要になる。淳和天皇の息子恒貞親王嵯峨天皇の息子仁明天皇皇位継承の争いと承和の変における唐物の重要性と文室宮田麻呂の政治的立場といった話がおもしろい。朝廷の交易管理の手段としての唐物使。
 第6章は、日本と中国を結んだ商人たち。838年の最後の遣唐使が、新羅系移民のネットワークに乗って往来したこと。円仁を代表とする、日本から送られた仏僧たちも、これら新羅人ネットワークによって支援を受けていた姿が紹介される。しかし、ネットワークの中核だった張宝高の暗殺によって、瓦解。山東半島経由の交易ルートの治安が悪化。江南商人による、江南・五島列島の直通ルートがメインルートになっていく。
 最後が、「交易がつなぐ人と地域」ということで、具体的な移動ルートを成尋の中国への密出国ルートから紹介する。あとは、南西諸島や東北・北海道の地域変化。商人たちの姿など。中国と日本の管理港の外側では、かなり自由に交流している姿が興味深い。唐物の売却が終わった後の交易活動は、日本の朝廷にとって関心の外であった。また、中国においても、舟山列島でさまざまな人々と交流を行っている。
 あるいは、安全と価格の安定を確保できる「交易港」の重要性。海商のネットワークも「開放的」なものではなく、血縁や地縁、文化的素養、各地の有力者との私的関係といった「技能」によって閉鎖的に維持されていた。贈与と人間関係が埋め込まれた関係と。


 以下、メモ:

 ただし、三世紀に奈良盆地倭人の政治センターが登場するまでの経緯は、西日本と東日本の交流が強く意識されるようになったということ以外、あまりはっきりとしたことはわからない。従来、邪馬台国近畿説は、楽浪郡の衰微を契機とする鉄流通の動揺で、北部九州勢力とヤマトを中心とする勢力に対立が生じ、「倭国大乱」がおこって、これにヤマトを中心とする勢力が勝利し、邪馬台国連合が登場したと説明してきた。けれども考古学的には、そうした大規模な「戦争」を裏付ける資料が確認できない。以後も鉄の普及に関して北部九州の優位性は揺るがなかったこともわかってきた。鉄資源の輸入ルートの掌握をめぐる九州連合とヤマト連合の抗争というストーリーは、大きく疑われるものとなった。p.24

 そういえば、弥生時代の遺跡で、焼き払われた形跡って、聞いたことないものな。

 そもそも卑弥呼にとって、魏との外交は、それ自体が有利な交易でもあった。中国では春秋戦国時代以来、中華=文明世界と蕃夷=野蛮世界を区別する中華思想と、中華の君主が高い徳で蕃夷を強化するという王化思想が醸成されてきた。漢代以降の歴代王朝は、こうした思想に基づき、異民族の君長が貢物をもって通行を求めると、それを中華皇帝の徳を慕う蕃夷の朝貢とみなした。また、そうした君長の求めに応じて「王」や「侯」などの爵位を与え、臣として冊封したり、貢物の価値を大きく上回る返礼品(回賜品)を与えたりして、中華皇帝の権威を誇示した。このため、朝貢品−返礼品の贈答によって成立する皇帝と君長の朝貢交易は、等価交換ではなく、朝貢を受け入れる皇帝側に莫大な負担を強いる構造となっている。それでも皇帝は、官営工房を発達させ、宮廷文化を彩る華麗な品々を国家直営で製作すると、民間交易に対しては管理を強化し特定物資の輸出規制をかけるなどして、文明的優品の独占と分配能力を高め、蕃夷の君長の朝貢を必死に招き寄せた。中華国は、その努力と交換価値のギャップによって、政治的権威を「買った」のである。p.30

 まあ、優位を主張する側が、気前よく贈り物をするのは基本だわな。権威を「買う」中華皇帝。

 このようにみると、唐律令と日本律令の交易管理に対する姿勢の差には、同じく中華を標榜しながら、自らのもつ高度な文明を広く国際社会に分配することで権威を保つ中心の王権と、外来文明を見にまとい、渡来人の人・モノ・文化を国内諸勢力に再分配することで権威を得る周縁の王権の差が、よく示されているということになるだろう。p.87

 輸出品の規制を行う唐の法律と輸入品の購入の管理を行う日本の法律の違いから。

 それは、九世紀が、以前にもまして「唐」に政治的な意味を見出した時代だったことの影響だろう。そのきっかけは、光仁天皇の皇子で、平安時代の幕を開いた桓武天皇が、天武−草壁系から天智系への皇統の転換を強く意識し、新皇統にふさわしい新都を築いて(長岡京平安京)、理想的な天皇像を中華皇帝に求める動きを一層強めたことにある。以後、九世紀の王権はしばらく、政治と文化の両面で前代以上に「文明化」政策ともいうべき唐化政策をおしすすめ、都では唐風の文芸を国家の支柱とした空前の「唐風文化」が花開いた。そして、この唐化政策を推進するために、唐文化とのつながりや一体性が意識される国際色豊かな文物がますます注目されるようになった。こうして、支配層の求める「カラのモノ」とは、「唐」に代表される、まさしく唐物となっていったと考えられる。p.135-6

 桓武朝からの唐化政策。その中で、唐物の重要性が高まる。

 この九世紀、支配層の間に唐物獲得競争を促す要因は他にもあった。平安初期の王権が、専制君主的でありながら、桓武天皇の皇子たちによる「王統迭立」とも呼ばれる複雑な皇位継承のバランスの上に成り立っていたことである。桓武以後の皇位継承は、嵯峨−仁明系と、淳和−恒貞系の二つの王統の間で迭立がはかられたが、その水面下では王統間の激しい綱引きが繰り広げられた。このなかで、中央の支配層は、行幸の際や宮廷において、皇親を押し立て専制君主に接近しようと、競って絢爛豪華な儀式や宴会をさかんに開いた。こうした場で、政治的意味を強めた唐物が献物品として、また場を飾り立てるものとして重要な役割を果たしたのである。政治闘争のなかで、自らの政治的優位性を少しでも高めたい支配層は、権力や文明の中心性を象徴するようになった唐物の獲得に躍起となった。p137-8

 政治闘争の手段としての唐物。

 また、「茶」や「銅匙ちょ」(銅製の匙と箸)も江南地域で生産されており、とくに茶は、徐兄弟の時代、江南地域で活発に生産と売買が行われていた。そもそも、唐代は磁器、銅製の匙や箸を茶器としても用いていたから、徐兄弟によって茶、磁器、銅匙ちょが運ばれた事実は、当該期の日本に、江南地域から茶文化が移入されていたことを示すのである。p.176

 九世紀の茶文化の移入。輸入品である限り、その文化の拡散には限りがあったってことなのかな。

 また遺跡では、唐津湾岸の鏡山南麓に位置する鶏ノ尾遺跡が興味深い。鶏ノ尾遺跡では、九世紀中頃から一〇世紀中頃にかけての製炭・鍛冶行為に付随して一括廃棄されたとみられる遺物のなかに、多くの貿易陶磁が含まれていた。そのなかには越州窯系青磁があり、1類と呼ばれる質のよいものも含まれている。また、王臣家とのつながりを示唆する緑釉陶器なども完形に近いかたちで数点出土している。いずれも九州での出土はそれほど多くない。さらにここからは、時期が明確でないものの、施釉大甕の破片が出土し、これも日本産ではなく、渡来船の物品を入れるコンテナ用の甕か、成尋の船にもあった水や酒などの液体を保管する容器と推測される。饗宴遺跡の可能性が指摘されている鶏ノ尾遺跡は、唐津湾に停泊する海商船と日本有力層との個別の結びつきを示す可能性をもつ遺跡である。p.200

 鍛冶行為ってのは、船の修理でもしたのかね。

その後、大宰府と「南蛮賊徒」との攻防は、一一世紀前半まで続いていることが史料から確認できる。p.211

 奄美諸島の住民と九州北部の商人が結びついて、海賊行為を働いていたらしいと。少なくとも、福岡近辺まで進出できるだけのネットワークを持っていたと。そういうのがあったんだ。