青木敬『土木技術の古代史』

土木技術の古代史 (歴史文化ライブラリー)

土木技術の古代史 (歴史文化ライブラリー)

 遺構を精密に観察し、土木技術、特に古墳や寺院の基壇に土を盛る技術から、古墳時代から奈良時代あたりまでの組織や外交関係、信仰などに迫る。政治集団の重要課題である古墳や寺院の建設には、その政治集団が保持している重要リソースが投入される。そこに、政治の姿が透けて見えてくる。遺構を丁寧に読むことによって、ここまでわかるのだな。技術系統の検討から、ここまで、ストレートに外交関係が分かるというのが興味深い。
 あと、素人からすると、古墳時代前中後期といった相対的年代とそれが何世紀のことかは、ある程度、きちっと対応させておいて欲しかった。年代がいまいち分からない。


 前半は、古墳から分かる、古墳時代の日本列島社会の多様性。
 弥生時代の墳墓は、周囲の堀や掘削土で墳丘の土がまかなわれるが、古墳時代になるとそれでは足りず、外部から土を持ってこないといけないような墳丘へと変わる。そのため、土砂の採掘や運搬の必要があり、より複雑な指導力を必要とすることになる。
 また、日本列島の古墳は前方後円墳前方後方墳の並存など多様な形をもっていることが、中国や朝鮮半島との比較で指摘される。


 古墳には、「東日本的工法」と「西日本的工法」が存在していたというのが興味深い。前者は、中心部に「小丘」をつくり、外に肉付けしていく。石棺を設置した上で、さらに、最後に仕上げの土盛りを行う。後者は外周部に土手状盛土を作り、その間を埋めていく。それを繰り返し、ひな壇状に成型する。それぞれ、異なる技術を伝承する、二つの政治的ネットワークが、日本列島中央部に並存していた。
 古墳時代中期にいたると、前方後円墳の巨大化が進む。共同体内部の人に見せるものから、外部の人に見せる意識が強まる。この時代は、東日本に西日本的工法を導入した古墳が築造されたり、土塊・土嚢積みといった新技術の導入が、一代かぎりで終わるというところに特性があるという。王権から技術者が派遣されるようなヤマト政権とのつながりは、非常に属人的なもので、密接な関係を結んだ当人が死ぬと、後継者に引き継がれない。このようなあり方が、土盛り技術から見える。
 古墳時代後期に入ると、土嚢・土塊積み技術によって、同じ地域の古墳が連続的に作られるようになる。これは、王権と地方有力者の関係が属人的関係から制度化されたものに変化したこと、文献史学的には国造制やミヤケの導入の影響が考えられるという。また、東アジア圏全体で、墳丘を高く積み上げることに意識が向くようになった


 飛鳥時代以降は、仏教寺院の基壇の土盛りがメイン。
 百済系の性情の異なる土を使い分ける方法、華北系の同一の土を使う技術、礫と土砂を交互に積み重ねる新羅系の技術、三種類の基壇構築方法が、奈良盆地周辺の寺院に導入されていること。それぞれに外交的背景がある。最初に、日本への仏教の導入にともなって派遣された技術者によって導入された百済系技術、遣隋使によって持ち帰られ天皇関係の限られた寺院にのみ使用された華北系技術、そして、最後に白村江戦後、新羅と関係を強化し、間接的に唐の制度を導入した時代の産物である礫と土を積み重ねる新羅系技術。それぞれが、歴史的展開にシャープに対応するというのが興味深い。
 敷粗朶・敷葉工法が、官道や都城の街路建設、築堤など、国家の直轄する土木事業に、中央管理の下で投入されていたらしき姿。建物の掘立柱を立てるための穴の掘りかたの癖の観察から大型建築物の造営のための作業者が10人一組程度で編成されていたらしいこと。信仰のために基壇の表面を徹底的につき固めた事例や仏典に書かれている基壇構築方法に従っているとおぼしき繊維の検出。国分寺の諸国建設にともなって簡略化された技術が、各地に伝習されたことなど。こういうことが分かるのか、と興味深い。基壇土の科学的分析から、安置されていた仏像の推定をできるようになるかもしれないという話はロマンだなあ。


 以下、メモ:

 古墳でも同様だが、土木構造物の色彩的な側面は、あまり注目されないけれども、重要な要素と考える。東日本的工法の項でふれた宝莱山古墳は、葺石とよばれる墳丘法面の土砂流出を防止するための墳丘外表施設をもたない。つまり、ローム土主体の赤茶けた墳丘としてつくられたことになる。想像をたくましくすると、赤茶けた墳丘に似た色調の埴輪を並べたところで、際立った対比をなさない。一方、白色の葺石に覆われた墳丘の場合、褐色の埴輪列は鮮やかに浮かび上がる。五色塚古墳などがよい例である。つまり、墳丘の色調は、葺石の有無あるいは埴輪を樹立するかしないかによって異なることになり、古墳を画一視することは、地域性を見失ってしまうおそれがある。七世紀になると、古墳の墳丘に木を植えた可能性が指摘されている。墳丘は緑の丘となり、やがてうっそうと木が生い茂る森となっていく。こうした墳丘に対する人々の観念が変化していったことは、精神文化の変化へと結びつく重要な視座となる。p.161-2

 へえ。墳丘を見る目の時代的変化。あるいは、色調の重視。色調は確かに重要だっただろうなあ。

 今も述べたように、礎石は、建物の荷重を受ける要となり、さらに基壇全体がそれを支える構造となっている。なにせ、瓦葺きの建物は重い。塔などは、全重量の八割程度が瓦の重さである。総重量四〇〇トンを軽く超える東塔を支える基壇、硬く突き固めるのは、ある意味当然の帰結であろう。p.215

 瓦が重量の8割って、すごいな…