熊本博物館「くまもと市遺跡発掘速報展2022」

 2月19日までの会期で、ギリギリ滑り込み。
 上代町遺跡群から出土した木製品が展示されているということで、興味があった。他には、有泉出口遺跡、北中尾遺跡、長嶺遺跡群、八反田遺跡群、熊本城、古町遺跡、二本木遺跡群の112次、113次調査区、白藤遺跡群の発掘成果が紹介。文書史料からは目立たないけど、二本木近辺の肥後国府は中世に至っても都市的な場として機能していたのだな。二本木神社近辺が肥後国府の所在地なのか。古町遺跡は町家の発掘。
 写真撮っていいとも悪いとも書いてなかったから、バシバシ写真撮ってきたけどよかったのかな…


 長嶺遺跡群は弥生時代の集落遺跡。藻器堀川沿いの湧水群を利用しての農耕を行っていたのかな。台地上では畑作も可能だっただろうし。現在の託麻総合出張所近辺と広福寺の近辺に竪穴式住居跡が検出されている。
 鉄製品が複数発掘されているのが印象的。



 有泉出口遺跡は、植木町の西部の集落。周囲の丘には古墳が展開し、その一段したの台地に古墳時代後期の集落が展開。すぐそばに湧水地もある立地というのは、長嶺遺跡群にも共通する感じか。
 ミニチュア土器や天草式製塩土器、陶質土器らしきものなど交易や祭祀など、普通の集落より中心地性が高そうな出土遺物が発見されている。近くを主要道路が通じていたのも、交易との関わりを窺わせる。




 二本木遺跡群は2ヵ所。前者、112次調査区は二本木2丁目あたり。8-9世紀あたりの国府付属施設とおぼしき建物群が検出。緑釉陶器や中国産青磁が出土。その後、中世になって国府が現在の二本木神社あたりに移動。16世紀に至るまで都市的な場として存続した。字名が「市町」だから、まさに流通中心地だったわけだ。白磁青磁、染付など各時代の輸入陶磁器が出土。
 同地域は、近代に入ると遊郭として繁栄。タイルの破片や熊本監獄が製造したレンガ、新しい時代の食器や日用品が出土している。この時代になるとセルロイド製の歯ブラシなんかも出土するのだな。




 113次調査区は熊本地方合同庁舎の近く。古代には、ここが国衙の南だったのか。平安時代初期の土師器や瓦片が大量に出土。寺院の瓦や灯明皿など、お寺に関係ありそうな物が大量に出土している。また、陶器製の仏塔「瓦塔」の破片も出土。



 熊本城では、宇土櫓の石垣修復のための空堀のトレンチ調査と千葉城地区の発掘調査。
 宇土櫓直下の空堀は、築城時の堀底から5メートルほど堆積が進んでいる。6.26水害の廃棄土砂の上の堆積物がけっこう厚いのが気になるところ。周辺の建物の修理解体や石垣建設などの工事中に流れ込んだ土砂が覆い。明治22年までに数メートルの堆積物が重なっているのだな。また、江戸時代の堆積層からはトラディスカント壺と通称される華南三彩壺が出土。加藤家の時代に輸入された高級品の可能性が高い、と。
 千葉城NHK跡地の遺跡残存状況の確認では、江戸時代の旧地形や遺構が確認。さらに古墳時代の須恵器や鉄製品も出土、と。



 古町遺跡は町家の発掘。16世紀末から19世紀に至る陶磁器類が出土している。中国陶磁器の輸出増加でシェアを奪われた肥前陶磁器が、メインの市場を日本国内に定めて、廉価品を大量生産するようになった移り変わり。あるいは、すり鉢が肥後国内生産の瓦質すり鉢から肥前製の陶器すり鉢へと変化するなど。
 そういえば、各時代の陶磁器の中央、17世紀末~18世紀の奥、右から2番目の皿の絵がなんか好き。



 最後は上代町遺跡群の木製品群。保存処置が終わって、お披露目と言ったところか。樹脂を染みこませるのに時間がかかるのかねえ。木製品は、集落外周の大溝に沈んだ形で出土している。この溝には廃棄されたものと未製品があって、後者は木の成分を浸出させて変形を防ぐ意図があったようだ。
 あと、上代遺跡群は、銅剣の柄赤漆塗木製剣柄」が出土するなど、弥生時代の拠点的集落であったという。そういう意味では、出土した木製品も、それほど広い範囲ではないだろうけど流通する物だったのではなかろうか。自給自足というのは、水に漬けたり手間をかけているように感じる。まあ、木製品は出土地が限られるだろうから、流通を検証するのは難しかろうけど。
 あと、この地域は陸化するのが早かったんだな。川尻の方だと、中世あたりに陸化する感じだけど。