大村幸弘『アナトリア発掘記:カマン・カレホユック遺跡の二十年』

アナトリア発掘記  ~カマン・カレホユック遺跡の二十年 (NHKブックス)

アナトリア発掘記 ~カマン・カレホユック遺跡の二十年 (NHKブックス)

 中近東文化センターが行っているカマン・カレホユック遺跡の発掘の経緯と、中心的な役割を果たしている著者がトルコに留学してから現在までの活動や発掘の成果、ヒッタイトと鉄の関係など。
 第一章は考古学へのなれそめから、トルコへの給費留学を果たすが手違いで楔形文字の文書を読むヒッタイト学科に配属され、セダット教授の指導を受けるようになる話。ヒッタイトの鉄の追求。季節風を炉への空気の吹き込みに利用していたって指摘は興味深いな。
 第二章は三笠宮やオズギュッチ教授の支援をうけて発掘権を獲得、発掘を開始するが、年代決定などで苦労する状況。
 第三章はカマン・カレホユックの発掘から得られた成果の整理。オスマントルコ時代の層、ヒッタイト崩壊後の鉄器時代ヒッタイト時代が帝国期と古王国期に分けられ、アッシリア商人の影響を受ける時代、さらにプロト・ヒッタイトの時代に言及される。
 第四章は、再びヒッタイトの鉄の話。鋼の生産がされていたという話。アッシリア商人とプロト・ヒッタイトの職人との協力によって、製鉄の技術が発展したのではないかという仮説など。
 正直、著者は考古学について、教育をうけ損なっていたのではって感じが。

 先ほどのヴィンクラーの話ではないが、とりわけ文献学者は粘土板文書ばかりを追い求め、その他の遺物は軽視するきらいがある。セダット先生にもそうした傾向が顕著にあったし、その弟子でこの遺跡の責任者だったハイリー先生も、残念ながらそうであった。
 粘土板文書の発見に重点を置いていること、しかもダム建設までに時間がないとあって、コルジュテペ遺跡の発掘は、総体として遺物に対する扱いがかなり荒っぽかった。鉄剣は現場で隊員がふざけて地面に突き刺したまま放置され、いつの間にかなくなっていた。炉跡のほうは測量もされないままダムの底に沈んでしまった。p.32

 怖ろしく酷い発掘だが、70年代の初頭の話だしな。日本でもほめられたものではない発掘はいくらでもあったのではないだろうか。あと、これはセダット門下の発掘に対する姿勢が突出して悪かった可能性がある。後の方を読むと、考古学の専門の方からは相当、批判的な目で見られていたのではなかろうか。そのなかで、まともに考古学をやりたいっぽい著者は相当目立っていたのではなかろうか。
 少なくとも、「じっさいにはかなり閉鎖的、権威主義的な側面があることも事実で、部外者が出土遺物を再検討したりオープンに議論したりしにくい雰囲気は少なからずある。(p.66)ってのを、考古学全般に適用するのはどうだろう。確かに日本の考古学もずいぶん体育会系って感じだが、外部の遺物の利用は割とオープンに見えるが。管理の良し悪しの問題はあるだろうけど。まあ、発掘権が利権化しているような感じではあるな。このあたり行政発掘が多い日本と、中東考古学の違いなのだろうか。


 以下、メモ。

 ヒッタイトの山岳崇拝については前著には記さなかったので補足しておこう。ヒッタイトの都市の立地を詳細に眺めると、たいていは山の峰を背にした形で街が開けている。その山の多くは石灰岩などを多く含んで白味を帯びており、山中に神を祀った神殿がある。もっとも典型的なのはボアズキョイの北東二キロの山上にあるヒッタイトの聖地「ヤズルカヤ」で、岩壁には暴風神、太陽神など多くの神々のレリーフが刻まれている。これと同じような条件が、規模の大小はあれヒッタイトの多くの都市で見られるのである。こうしたことを記した文献はいまのところ見つかっていない。だが、私は中央アナトリアの古代都市を千以上フィールドワークした結果、彼らが山々に神の存在を意識していたことはおそらく間違いないと思っている。p.42

 都市の立地。

 採集した遺物の九九%は土器片であったが、それらを手に取ってはいちいち「ため息」の連続であった。たとえば、何百年も前の陶器の破片でも、いざとなると判断できない。「もしかしたら、最近近くの住民がピクニックにやって来て捨てた食器のかけらかもしれない」などと迷ってしまうのである。十年近くアナトリアの遺跡を回り、数多くの出土品を目にしてきたのだから時代の分類など簡単にできるだろうと思っていたのだが、考えが甘かった。
 そのような途方に暮れる私を、オズギュッチ先生が手助けしてくださった。こんな具合である。「オオムラ、これはいつの時代のものかわかるか?」「ヒッタイトですか」「よく観察してみなさい。この赤色は私ですら騙すことがある。これは間違いなく鉄器時代だ」
 先生は一目見るだけで瞬時に分類していき、鮮やかな手さばきは神業のようだった。
 そして、こう言われた。
「君がいままで勉強してきたのは、言ってみれば博物館のガラスケースごしの考古学だったのだよ。それを打ち破らないことには、本当のアナトリア考古学の研究者にはなれない。君もこれから一人立ちするのだから、とにかく多くの土器に触れることだ」p.90

 陶磁器の年代を当てることができるってのはすごい技能だよな…

 なぜカマンが二千年近くも放棄されていたのかという点については、いまもって明快な回答を出せていない。ただ、なかには紀元前三四〇年頃、アナトリア全域に大旱魃が起こった可能性があるという意見もあるもしほんとうにそのような自然環境の大異変があったとすれば、人々は苛酷な状況に耐えかねて土地を放棄しただろう。アナトリアがまったくの無人の荒野になったとは思えないが、一時的にはかなり住みづらい場所になっていた可能性はあり、カマンの2a層が荒れ果てていることとも符合する。p.116-7

 一般に、アレキサンダーは故郷のギリシャを出て東方に向かい、次々に異国の地を征服・恭順させ、アナトリアからインダスに及ぶ広域を平定、史上まれなる大帝国を築いたといわれる。この偉業ゆえに、彼は無敵の英雄として賞賛されている。しかし、このときのアナトリアが、たとえば旱魃後の荒廃地であったらどうだろう。アレキサンダーは疲弊しきった荒野を不戦勝で通過しただけということになる。p.117-8

 まあ、ペルシア帝国がなんであんな簡単に解体したかというのは、結構な謎ではあるが…