小寺智津子『ガラスの来た道:古代ユーラシアをつなぐ輝き』

 古代の墳墓から出土したガラス製品を詳細に分析することによって、ユーラシア大陸の西側で作られたガラスが、どのようなルートで東アジアまで運ばれ、どう分配されてきたかを明らかにする。あんまり古墳って興味なかったけど、副葬品から権威構造や大陸をまたがる政治的関係、その変遷まで追えるのだな。
 というか、同位体比による鉛などの金属素材の産地判定やガラスの非破壊成分分析といった理工学的な技術が、本当に出土遺物の情報の分解能を飛躍的に上げているのだなと感心させられる。


 全体は、全体はガラスの基礎知識とユーラシア西方のガラスの歴史を紹介する「ガラスの特性と歴史」、中央アジア遊牧民春秋戦国時代の中国との交流をガラスから明らかにする「蜻蛉玉と草原シルクロード」、漢の時代の内陸・水上の交易ネットワークを明らかにする「漢代のガラスとユーラシアネットワーク」、ガラス製品の出土遺物から外交相手や権威構造を明らかにする「弥生時代のガラスと大陸との交流」、漢滅亡以降のユーラシア東宝におけるガラス流通のゆくえを記す「激動のユーラシアとガラス」の構成。




 第一部は導入で、ガラスの特性についての解説と、西アジア・ヨーロッパ地域のガラスの歴史。
 熱が伝わりにくく、表面と内部の温度差から割れるため、表面も高温に保ちつつ、徐々に冷やしていく「徐冷」の技術が、実はかなり重要な技術だが、古代においてどのように行われていたかの情報がほとんど無い。あるいは、シリカの溶融剤は鉛を使ったものとアルカリを使った物に分けられ、後者は天然ソーダ、カリ硝石、植物灰などに分けられる。この溶融剤の成分が地域特定に重要。あとは、素材ガラスを作るには1200度と製鉄相当の発熱技術が必要だが、素材ガラスを再加工するなら800度の青銅器相当の火力でなんとかなるというのも興味深い。
 西アジアのガラスの歴史を流通の観点から紹介しているのも興味深い。前三千年紀に宝石の代用品的に作られるようになったガラスは、前十六世紀ごろから容器に進化。コアガラス、モザイクガラス、鋳造で作られる。前13-12世紀には社会的な混乱で生産が停滞消滅。前一千年紀に入ると再興。アケメネス朝ペルシャの時代には食器として広く使われるようになる。この時代を継いで、ヘレニズム時代には商業的流通が増える。この時期に、地中海・メソポタミア圏を超えて、ガラス製品が流通することになる。ガラスのユーラシア大陸全体への拡散は、相当新しい時代なんだな。
 紀元前一世紀ごろに、吹きガラス技法が開発され、一気にガラス製品のコストが下がることになる。ガラス素材工場と製品工房の分業体制が構築され、各地でガラス製品の生産が行われていた。ポストローマ時代に入っても、生き延びた素材工場は大規模に操業を続け、イスラムガラスやササンガラスに引き継がれていく。ササン朝のガラスは、植物灰を溶融剤にしていて、成分の分析でローマングラスと判別できる。今までローマングラスと思われていた作品がササングラスで、逆もありというのが興味深い。見た目からは判別できない情報のおもしろさ。
 あと、紀元前の千年紀って、本当に頭の中で換算しにくいなあ。


 第二部は「蜻蛉玉と草原シルクロード」。春秋戦国時代に、西方由来の蜻蛉玉が突然、中原に出現する謎を追う。西方で多様な珠類が生産される中で、需要者側で選好が行われる。中国中原で発掘された蜻蛉玉は青系が多いが、これらは黒海沿岸などで墳墓を営んだスキタイ人の好みと重なる。
 スキタイでは、特に高貴な人々の墓に、重圏円文珠が副葬され、威信財として高く評価されていた。このような、遊牧民の文化は、ユーラシア北方ステップの東西で共通していて、モンゴルなどでも高く評価されていたと思われる。中原北方の諸侯との政治的接触の場面で、贈答品の中に含まれていた蜻蛉玉が、中国でも威信財として評価され、分配副葬された過程が想起できる。シルクロードというと、オアシスルートがクローズアップされるが、ステップルートの人々の行き来もそれなりに大きかったのだな。
 あとは、蜻蛉玉の模倣から玉製品の模造品としてのガラスが戦国時代の中国で広がっていく姿やガラス文化の地域性。


 第三部は漢代のガラス。ローマと漢という東西に核ができて、東西交流のひとつの頂点ができる時代。副葬品にガラス製品が増える。玉器は生産量が少ないから、ガラスで代用という側面があったのかねえ。
 北方の匈奴経由で導入されるガラス器、逆に海のシルクロード経由で接触した西方ガラスを模倣したカリガラスを素材としたガラス器の独自製作と流通。交易ルートの活況がもたらす文化の混交が興味深い。
 霊渠開削による南海へのルート開拓、パルティアの交易独占政策を迂回しようとする西方商人に試み、いろいろと絡み合いがおもしろい。中央アジアから山越えでインド洋に出るルートでも儲けがでるのが東西交易なんだよなあ。途中の経費がどの程度かかっていたのか。


 続いては、弥生時代の日本のガラス製品の話と、楽浪郡を核とした東シナ海黄海日本海沿岸地域のネットワークのお話。
 弥生時代の日本では外部から導入された管玉、小玉を中心に、それらを素材に日本で鋳造された勾玉がよく見られる。
 北九州地域では、吉野ヶ里の首長が朝鮮半島から入手した管玉を頭飾りに改造して誇示したり、伊都国・奴国が漢帝国から下賜されたガラス璧をもって権威を誇示したり。あるいは、内部での威儀を誇示するための勾玉への改鋳などが行われた。
 続いては、北陸。丹後や山陰のガラス珠の威信財としての扱いが興味深い。同じく大陸から獲得された鉄素材・武器が力の源泉だったけど、それらは流通分配が前提のため、広く普及し威信財として扱いにくい。そのため、ガラスを威儀を示す道具として扱った状況。
 そして、それらのガラス製品の入手先が、漢帝国出先機関だった楽浪郡であった。楽浪郡都城で出土するガラス器は弥生時代の日本で出土するガラス器を網羅しているけど、他の朝鮮半島ではそういうセットにならない。


 最後は三国時代以降のガラス器の流れ。
 葬送風習の変化から、ガラス器の副葬は減っていく。仏教などが盛んになって、習慣が変わっていく。3世紀前後の寒冷化で、東西の帝国が解体混乱。5-6世紀に入って、一定の安定がもたらされ、東西貿易は再び活性化。中国には再びガラス器が持ち込まれることになる。後期ローマングラスからササングラスへ。海上交通によるガラス器の持ち込みから、北朝の時代には内陸ルートでササングラスが持ち込まれる流通形態の変化。
 大貴族の「闘富」というのが興味深い。互いに富を誇示しあう。その中で舶来、かつ透明なガラス製品は珍重された。ガラス器を見て、詩を詠むか。
 5-6世紀ごろの新羅の古墳から出土するローマングラスが、ステップルートの遊牧民高句麗経由で持ち込まれた。日本の古墳時代の出土ガラス器は分析中と。
 隋唐時代以降は、ガラス器は仏教と紐付けられ、舎利容器や仏具として使用されるようになる。ガラスの透明さ=清らかさというイメージで、宗教的に利用されるようになる。一方で、一般に使われる道具としての利用が無くなり、生産や入手の積極性が近世に至るまで少なくなる。