新名一仁編『戦国武将列伝11:九州編』

 返却前に、いそいでノート作成。うーむ、なかなか書きにくかった。


 九州の戦国時代に活躍した戦国大名や国衆たちを列伝体で描く。こうしてみると、肥後の国衆は情報が少ないなあ。大友、島津、龍造寺を中心に、36項目、60人。親子などはまとめられていることが多いけど、戦国末期九州情勢の台風の目となった島津家の兄弟、義久、義弘、家久はそれぞれ単独で立項されている。
 全体としてみると、肥前北部と日向北部の勢力の記述が薄いか。大名として生き残った松浦氏の記述も欲しかったところ。


 肥後に関しては、菊池家最後の当主菊池義武、菊池家家老系で隈部氏と城氏、戦国阿蘇氏の全盛期惟豊・惟将、戦国肥後は彼抜きで語れない阿蘇氏宿老甲斐宗運宇土の国衆名和氏、南半の戦国領主相良晴広、義陽の7項目が立項されている。熊本の国衆は肥後国一揆で壊滅しているから、情報が少ないなあ。
 肥後視点だと、大友氏から送り込まれた義武はふさわしくないような気もするが、波瀾万丈さは歴代当主でも一番かねえ。大友氏からの自立を企んで、攻撃を受ける。豊後から大軍を送り込まれたというより、国衆レベルの抗争で差し込まれて没落という感じかな。もうダメだと思った契機はどこなんだろう。
 あとは、甲斐宗運阿蘇家を支え続けた姿。宮崎県五ヶ瀬町を基盤とする家が、阿蘇氏の内紛に介入して有力者に。それが父の世代。そこから、三代にわたって阿蘇氏を支え続ける宿老が宗運。で、甲斐氏は肥後国一揆に加担して消える。なんか儚い。あとは、鞍岡に阿蘇氏の隠し里があったというのがロマン。確かに阿蘇からは谷と山で案内人が必要そう。
 宇土の名和氏や隈本の城氏は、肥後国一揆の際、大阪に出頭していて生き残ったのね。しかし、名和氏は残った家臣と共に歴代の文書類を失っている、と。
 戦国時代の相良氏、八代が拠点なんだよな。島津に敗れたあと、人吉に引っ込んで家中の再編、できたのだろうか。江戸時代を通じて、ちょこちょこお家騒動が起きているのは、余波が長く続いたのかねえ。
 肥後の戦国時代といえば、島津氏に降伏した相良義陽が、阿蘇氏へと攻め込み、甲斐宗運に討たれた響ヶ原の合戦がクライマックスだよなあ。


 やはり、九州の戦国時代は大友、龍造寺、島津の三勢力が軸になる感じか。というか、大内/毛利の中国勢と大友氏の北部九州での抗争が、戦国時代のかなりの時間、メインの対立軸で、島津氏って相当後まで存在感ないよなあ。
 そして、大友氏は中国勢との対決で、基本的に劣勢。大友って、あんまり戦上手って感じはないなあ。まあ、複数国を押さえる大内や毛利とくらべると、安定支配は豊後一国という感じの大友は不利なのかね。
 で、大内/毛利と大友がぶつかるたびに、豊前筑前筑後の国衆は揺れ動き、自分の勢力拡大に腐心する。そこに打ち込まれたくさびが戸次道雪、高橋紹運立花宗茂たち、と。
 肥後の国衆は一揆で壊滅しているけど、筑前豊前の国衆は秋月、原田を始め、意外と生き残っているのが印象深い。所領は維持できなくても、家老クラスで徳川政権下で成長した大名にリクルートされている。国衆の経験というのは、欲しがられるものなのかね。


 竜造寺氏関連では、豊臣政権下で鍋島直茂が一門の代表者扱いで、家臣からも推戴され、結局隆信の息子政家は自害して、嫡流が途絶えているのが諸行無常だなあ。


 島津関係は、みんな一門なんだなあとか、内部争いがすごいとか。宗家の権威が低下したのには、何か理由があったのかとか。そもそも、鹿児島方面、地理が全然わからないので、どう動いているか、いまいち分かっていない。時間を取って、地図を見比べながら読まないとダメだな。
 豊臣襲来前夜の、義久と義弘の、当主と家臣団の方針の齟齬が印象深い。義久は豊臣のヤバさを理解しているけど、イケイケドンドンの家臣団を制御できなかった。というか、豊臣の国分けにしたがっていた方が、最終的に領国は広くなっていたよなあ。