山本博文『信長の血統』

信長の血統 (文春新書)

信長の血統 (文春新書)

 たまに織田信長本の固め読みをする時期があるな。この本も、その延長線上で。サクサク読める本。
 比較的オーソドックスなタイプの信長本。谷口克広本の影響が強い感じを受ける。2012年刊行だから、神田千里『織田信長』、金子拓『織田信長〈天下人〉の実像』が出る前か。しかし、それ以前から、論文は書いていたのではないだろうか。参考文献に両者の著作がまったく出ていないところに、調査の偏りを感じる。まあ、著者が近世の側の専門家だから、戦国史に不案内なところもあるのかもしれないが。
 京都を押さえ、足利将軍を追放、公家として任官し、「織田政権」が形成される。基本的には、足利将軍家を継承した「全国惣無事体制」であること。しかし、本能寺の変による、突然の信長死亡で、「織田政権」は再編を余儀なくされる。生き残った信長の息子、信雄・信孝、織田政権の有力者、柴田勝家羽柴秀吉丹羽長秀池田恒興ら、同盟者家康らの対立抗争の中から、秀吉体制へシフトしていく。
 本能寺の変の時点で、信長直轄の戦力が限られていて、安土城を守れない程度の兵力しかなかったってのは、興味深い。


 このような、情勢の変転の中で信長の子息や兄弟の家系は、次男信雄の系統が天童藩2万石、柏原藩2万石と旗本2家。七男信高、九男信貞の系統が旗本として。さらに、信長弟の系統として、信包の系統が旗本として。長益(有楽斎)の系統が柴村藩1万石、柳本藩1万石。合計九家が、近世を通じて存続したと。「天下人」の末裔にしては、所領がさびしいが、木下家も似たようなものなんだよな。他にも、分家があちこちに散っているようだけど。
 本能寺の変の時点で、政治的影響力をもてるほど成長していたのは、長男の信忠、次男信雄、三男信孝。他は、政治的影響力を及ぼせるほど成長していなくて、ほぼ蚊帳の外だったようだ。本能寺の変で信忠は戦死。この時、織田家の一門もかなり命を落としたようだ。
 さらに、秀吉との家督をめぐる抗争で、信孝は自害。信雄も失脚するが、のちに復権
 織田家の子孫にとって試練になったのは、関ヶ原の戦い。信忠の子秀信、信雄以下の信長子息は、西軍に与して、改易。所領を失う。長次は討死。有楽斎のみが、東軍に与して地位を保つ。
 その後は、豊臣家に仕え、重鎮の位置を占めるが、大坂冬の陣・夏の陣の過程で、徳川方につき、生き延びることになる。
 信長の血縁ということで、それなりに重んじられたのだろうけど、本能寺以後の政治的変転の中で、かなり綱渡りのを強いられたわけだ。そもそも、秀信や信雄は国持ちレベルだったわけだしな。


 以下、メモ:

 朝廷の官職は、公家の場合でも、一度それに任じられることに意味があった。それが朝廷の中の家格と序列に密接に関わるからである。江戸時代のことだが、中院・正親町三条・三条西の三家は摂関家清華家に次ぐ家格の「大臣家」だが、大納言に任じられて大将を兼ねず、内大臣になってもすぐ辞職することになっていた。しかしそれでも、大臣家として結構だったという(下橋敬長『幕末の宮廷』)。
 信長の場合、いつまでも右大臣の職を占有していると公家の昇進の邪魔をすることになり、居座り続けるよりは辞した方がよい、という判断があったのではないだろうか。また、将軍職も義昭が任じられたままだったから、それをあえて要求することもなかった。p.22

 1576年の信長の右大臣・右大将辞任の背景。現実の問題として、官職をあえて維持し続ける必要性がなかったと。

 家康は、講和に踏み切る理由として「織田政権」の意思を強調しているが、それは自分に都合のよいものだったからであろう。しかし、関東諸大名の「惣無事」が「信長御在世之時」への復帰とされていることは重要である。これは、「織田体制」が当時も生きていることを示している。端的に言って「織田体制」とは、信長による「惣無事体制」だったのである。p.92

 それも、足利政権を引き継ぐものだったとすると、何が新しいのかよく分からないな…