呉座勇一『応仁の乱:戦国時代を生んだ大乱』

応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

 奈良、興福寺大乗院の経覚と尋尊の日記をメインの史料として、応仁の乱とその前後の状況をまとめている。地味で、分かりにくい戦争を、コンパクトに、分かりやすくまとめた本。敵が味方で、味方が敵でな展開を、畠山義就と幕府家臣団の三派閥で整理すれば、割とすっきりとまとめられるのだな。ところどころ、人物評で、主観的論断があるように感じるが。


 室町幕府体制は、将軍と守護大名一揆的結合によって維持された政体であったが、足利義教の強権と横死。その後の、義政時代の守護大名たちの派閥への分極化が淵源にある。
 そこに、大和国内での国人の派閥争い、さらに管領畠山家の内紛が導火線となる。
 畠山義就が一貫して、台風の目なんだな。
 畠山義就と政長の家督争いが、京都の将軍側近、細川派、山名派の対立に飛び火する。三勢力が拮抗している間は、曲がりなりにも安定していたが、将軍側近伊勢氏が失脚し、細川・山名の対立になると、それぞれが両畠山と結びつく。山名宗全が、一気に覇権を得ようと義就を引き込んだことが、京都を戦火に巻き込む。義就は、政長を破るが、その際、山名宗全が加勢。同盟者を見捨てたことになり、面目を失った細川勝元が、報復のために軍事行動に至る。
 将軍をめぐるクーデターの応酬。さらに、家督や政治路線をめぐって、将軍義政と弟義視の対立などでごちゃごちゃに。山名・細川どちらも、短期決戦を目指しつつ、失敗。大内政弘の中国勢が到着し、西軍優位で膠着状態に。
 最終的に越前守護代朝倉氏を、東軍側が抱きこんで、西軍の補給を断ち、終戦に至る。幕府内での派閥の伸張を目指していた山名宗全が真っ先に、和睦に応じたあたりの、参戦勢力の利害の対立が興味深い。最終的に、大内勢は国内が気になって撤退。
 畠山義就が一人京都で戦い続けることに。最終的に、河内に撤退させることで京都の平和を解決する。事なかれ主義な感じがすごい。そして、自己の力量だけで、河内一国を押さえることができた畠山義就が、なんかかっこいい。彼が一番のヒーローだな。
 応仁の乱で幕府の体制が瓦解したわけではなく、将軍権力の再建が試みられる。近江出兵や河内出兵などの軍事動員を通じての、奉公衆や奉行人の掌握を目指した。しかし、それも明応の政変で瓦解する。
 また、応仁の乱の地方波及によって、守護の権威が揺らぎ、守護たちは自分の国許に帰ることになる。ここに、守護在京制によって、守護を通じて全国に影響力を行使していた足利将軍は、関西の地方政権に転落すると。


 応仁の乱前後も含めての期間だけど、全国に所領が分散する荘園公領制が解体して、領域を一円的に支配する近世的な体制への変化も、見逃せないと思う。遠隔地の所領は、維持できない。軍事的動員のために、在地の郷村と大名が直接交渉し、大名領国-村落共同体によって構成される近世的政体が形成される。


 奈良から見たと言う点でも、おもしろい。
 応仁の乱の時点では、大和国内では、武士たちが一応結束して、外部勢力を入れないようにした。結果、大混乱の京都を尻目に、平和を謳歌する。貴族が下向してきて宴会だの、風流(造り物)による祭りだの。
 むしろ、戦後。畠山義就が河内に下向。大和国へも軍事行動を重ねるようになって、治安は悪化する。奈良の町が略奪を受けたり。戦場になったり。


 本書の主人公、経覚と尋尊のキャラの違いも興味深いな。親分肌で、特定の勢力に肩入れしがちな経覚。逆に、保守的で、一歩引いたところで冷静に見る尋尊。著者は、尋尊を評価して、経覚を近視眼的と指摘する。しかし、応仁の乱の難局の中で寺努を引き受け、泥にまみれて、興福寺の経営の維持を行おうとしたのは経覚であることを忘れてはならないのではなかろうか。遠隔地の越前などから、年貢を確保するには、結局、現地の実力者に頼るのが現実的だったのではなかろうか。


 以下、メモ:

 合戦に巻き込まれることを恐れた足利義政は、山名・細川両名に対し両畠山への軍事介入を禁じ、義就と政長に一対一の対決をさせようとした。勝ったほうを支持するという義政の態度は無定見の極みであるが、これまでの畠山氏内訌においても、義政は基本的に優勢な側の味方であった。おかしな言い方だが、情勢次第で方針を転換するという点では一貫しているのである。義政はある種の柔軟さによって畠山氏内訌を何とかさばいてきたのであり、今回も局外中立を保つことで戦乱の拡大を防げると判断したのだろう。p.86

 これはこれで、一つの見識だと思うが。どちらかの陣営を支持して、軍事介入しようとしても、動員された守護大名ややる気がなくて、討伐が進まないわけだし。とりあえず、実力で白黒がつけば、強いほうで安定する。
 問題は、派閥の問題で、対立が広がる一方だったこと。根本的な解決が望めない中で、先送りし続けられたのがすごいのかも。

 だが、越前の状況は経覚が想定していた以上に深刻だった。五月二十二日、西忍が経覚のもとにやってきた。西忍は天竺人(インド人、ジャワ人、アラビア人など諸説ある)を父に持つ異色の人物である。以下、田中健夫氏の研究によりつつ、簡単に紹介しておく。西忍の父は来日して京都の相国寺に住んでいたが、相国寺住持で義満の信任厚い禅僧・絶海中津の推薦により、時の将軍足利義満に仕えることになった。国際貿易に関する知識を買われたものと考えられる。彼は天竺ヒジリと名乗った。
 西忍は応永二年(一三九五)生誕で、経覚とは同い年である。幼名はムスルで、長じて天竺天次と名乗った。ヒジリは足利義満の後を継いだ義持から疎まれ、家族ともども監禁された。ヒジリの死後、家族は許されたが、天次は京都を離れ、大和国に下って、立野に居住することになった。天次は母の出身地である河内国楠葉郷(現在の大阪府枚方市)の地名をとって、楠葉と改姓した。p.132

 へえ。こういう人も日本に来ていたんだな。なんか、名前の付け方から、ムスリムっぽいけど、ムスリム商人って、アラビアでも、インドでも、中国でも、ありうるんだよな。