諸般の事情で、後から読んだコッチを先に。
洋泉社の新書と比べても、初心者向け色が前に出た本。タイトルの通り、明応の政変以降、戦国時代の足利将軍がどのような存在であるか、新しい研究に基づいて紹介していく。なんか、江戸時代や近代のイメージで考えるから、めちゃくちゃ弱いというか、あやふやな権力体に感じるけど、それなりに権威の体系と存在感があったんだよなあ。とはいえ、現実の動員能力や武威といった観点では、時代を追うごとに低下していったのだろうけど。
それぞれの章ごとに参考文献と文献ガイドが付いているのが長所。
全体は三部構成。最初は、戦国時代へと踏み込んでいく応仁の乱から明応の政変に至る時代。第二部は、戦国期室町幕府の裁判・軍事・栄典・大名間調停・公武関係・女官などの制度的な側面。第三部は、義輝・義昭の最末期の足利将軍と、その後、江戸時代を生き延びた喜連川・平島の両公方家の歴史。
戦国期の足利将軍の「実力」を紹介する第二部が個人的に興味深い。
様々な法廷が存在して、その中で、「選ばれる法廷」として努力していたこと。経済系の訴訟を裁く政所沙汰と最終的には将軍自身が決済する御前沙汰の二種類があったことなどなど。ただ、「将軍の存在感」を考えると、他の法廷と比べて、どの程度頼りになるものであったのかを考えないといけないような。おそらく、そういう史料は残ってないだろうけど。後の章を考えると、朝廷の裁判よりは頼りになったのかなあ。
将軍の直属軍である奉公衆の規模を中心に。だいたい、室町時代を通して、2000~3000程度の動員能力を維持していて、義昭の上洛戦でも、その程度を維持している。しかし、この戦力は、大名クラスと戦うには規模が過小だったこと。とはいえ、義昭を三好三人衆が襲撃したときでも、自前の軍事力で対抗はできたって事なのかねえ。京都の治安維持は侍所が担っていたが、戦国期になると事務方のトップ侍所開闔がメインになった。
栄典や諸大名間の和平調停も興味深い。各地の大名や国衆は、他の勢力と比較しての優位を明らかにするために、相応の資金を投じて官位や偏諱、家格、各種の装飾などを入手した。また、和平調停にしても、将軍側が強制することはできなかったが、無視するには難しい程度の縛りになった。現在の国連みたいな感じなのかねえ。それなりの権威があった。
また、同時代の朝廷は、大規模な儀礼を行うには資金難だったが、生活費に困るような状態ではなかった。独自の裁判なども維持していた。一方で、武士達の抗争に巻き込まれないように慎重に中立の立場を維持していた。
女官たちが、将軍に近侍する立場だったため、かなりの影響力があり、各種の取次を行っていたこと。上級の女官はそれなりの収入があった。
応仁の乱後、義尚や義稙は、六角氏相手に大規模な軍事動員を行うことで求心力を確保しようとした。事実、鈎の陣には、中国四国から中部のかけての守護たちの多くが応じている。しかし、義稙の連続的な動員は、守護大名達の不満を呼び、さらに、細川政元や日野富子との関係悪化や畠山政長と細川政元の抗争から、クーデター「明応の政変」を発生させ、義稙は失脚する。これ以後、足利将軍家は、複数に分裂して、家臣団も分裂抗争することになる。
第三部は、戦国最末期。結局、義輝横死の原因は、いまいち分からないと。最近は御所巻説が有力になっているが、じゃあ、なんでそこまで行っちゃったのか。室町時代の政治史も、いまいちよく分からないこと多いよなあ。
また、最後の室町将軍となった義昭は、それなりに独自の幕府体制の構築に成功し、必ずしも信長におんぶに抱っこではなかった。一方で、独自の勢力形成は、信長との関係を悪化させていったと。
江戸時代の足利氏の末裔の話も興味深い。古河公方・小弓公方の末裔喜連川家、義維系の阿波平島公方の系統が存続した。どちらも、前代の将軍家として、一定の敬意を受けつつ、足利の名乗りは警戒されて拒否された。平島公方、蜂須賀家から冷遇されていたと思っていたけど、そこまでじゃなかったのかな。
あとは、肥後細川家の家臣となった足利同鑑の家系。義輝の遺児とされるが、あやしいとか。本当に、細川家は名門の末裔を集めてるなあ。