清水克行『大飢饉、室町社会を襲う!』

大飢饉、室町社会を襲う! (歴史文化ライブラリー)

大飢饉、室町社会を襲う! (歴史文化ライブラリー)

 1420年から21年にかけて発生した「応永の大飢饉」を、その前後を含めて追った本。
 プロローグとしての対馬への朝鮮王朝の攻撃とそれに伴う騒動。中世の生計に関する状況の紹介。そして、古記録に見える降雨日数から、天候不順の姿を明らかにし、飢饉とそれに伴う混乱と幕府の対策を描く。
 ただ、利用する史料が京都の公家の日記類メインだから、「荘園制」の内部構造がブラックボックスになってしまって、どうも、隔靴掻痒感が。「飢饉」って、もちろん穀物生産の落ち込みもあるけど、それ以上に「分配」の問題だから、ミクロな地域内での食糧供給の状況が分からないと、本当のところが見えてこないのではないだろうか。
 例えば、それぞれの地域の住民がどの程度、米を食べていたのか。初夏の麦の重要性とともに、水田以外の耕地の畑作物のシェアとそれがどの程度被害を受けたのか。こういう基礎的なデータが欠けている。


 京都に詰めかけ、次々と死んでいった飢民が、そもそもどのような生業を営んでいた人がというのも、よく分からない。農地を持っていた人々が、農業経営が成り立たなくなって難民化したのか、あるいは、食料を購入する生活をしていた人々が価格高騰で食料を入手できなくて移動したのか。
 102ページ以降の『老松堂日本行録』の記述を見るに、非農業民にダメージが大きかったように見えるし、同書で記録された「海賊」の行動が飢饉時の非常行動だった可能性もあるのか。


 時の将軍、足利義持のエキセントリックさもおもしろいなあ。禅に入れ込んで、自分なりの禅思想を構築し、それを理想として政治に反映させようとした。その徳政思想が、危機の時に、禁酒令という形で、発現した。他者に身を正すことを要求しながら、自分は大酒喰らっていたというのが、矛盾していておもしろい。
 どこまで、本人が意識していたかわからないけど、禁酒令が範囲を広げながら発令され、麹の専売化という形で、いわば身を正すことと京都の米価対策の一挙両得が狙われた。著者は、彼に対して、エキセントリックと手厳しいけど、「現代人並みに鋭く発達した経済感覚をもちながらも、一方で未開社会的な呪術観念を矛盾なく持ち続けていた(p.41)」という室町人そのものなんじゃなかろうか。


 そして、社会的危機はクライマックスに。祈祷やさまざまな願掛けの類いも効果無し。春になると、京都に押しかけた飢民たちが次々と飢えと疫病で死亡。さらに、それが社会全体に広がっていく。公家階層でも、次々と疫病で死者を出し、今出川家のように一家ほとんどが疫病で死亡する事例を現れる。足利義持も病気になり、その後は参詣と称して、京都外の伊勢神宮日吉神社といった京都外の大寺社へ逃避する。
 そして、このような飢饉の記憶は、今に至る盆踊りなどのさまざまな年中行事へ昇華され、また、民衆側から「徳政」を要求する徳政一揆へと徳政概念の読み替えが行われるようになる。


 この時期、室町幕府の安定期になぜ飢饉が起きたのかと疑問視されているが、むしろ政治的安定期だったからこそかもしれないなあ、と思った。
 南北朝の比較的長い動乱の時代が終わって、平和な時代が半世紀ほど続く。その間に、平和の配当ということで、人口が増えたのではないだろうか。それに対し、食料生産はそれほど伸びなかった。マルサスの罠的な、限界状況が現出していたのかもしれない。




 個別ディテールがおもしろい。
 1419年の朝鮮による対馬侵攻は局地的な事件だったが、それが、京都では尾ひれが付きまくっている。当時の国際関係、明との関係悪化も影響していたが、朝鮮軍は先鋒で、その後に蒙古の大軍が控えているとか、神々が撃退に大活躍しているとか。
 永楽帝が、臣従しない義持に「お前はせいぜい城壁を高くこしらえて、堀を深く掘って待っているがいい」と恫喝しているけど、鄭和の艦隊の規模を考えると、あながち口だけとは限らないのかな。


 あるいは、乾燥して、水に漬けると膨らむ率が大きい古米のほうが、値段が高かった。あるいは、中世には男性より女性の人口が多かったという話も興味深い。妊娠段階で性別の判別ができるようになって、だいたいの国で女性の中絶が多い中、日本ではそれがない割と少数派の国なのだそうだが、中世からそういう感じだったのかね。人身売買で女性のほうが需要が高かったというのがなんとも。


 伏見宮貞成による『看聞日記』に見える伏見荘の用水確保のエピソードも興味深い。東九条荘から用水を得たという先例から、荘園領主同士の交渉で水を確保した。しかし、それが深草郷の人々によって妨害を受ける。あるいは、水利権が弱い側が、条件の悪い夜間の水しか得られなかったなど。当時の用水秩序のあり方。


 あるいは、15世紀の第一四半世紀に、京都で出土する陶磁器などの生活用品が激減し、その後は供給元が変化する状況。これ、応永の大飢饉が原因とは断定できないけど、室町幕府の安定期に、京都で顕著に生活活動が低下するというのは、何事なんだろうなあ。




 以下、メモ:

広田社からは神々が数十騎の軍兵に姿を変え東方に出撃してゆくのが目撃されたという(あるいは熱田社での神々の「御評定」にでも参加しようとしたのだろうか)。その軍兵は謎の「女騎の武者」を大将にして率いられており、これを目撃した神人は、その後発狂してしまったとか。p.24

 SANチェックに失敗して、正気度が0になったなw

 さらにいえば、この降雨日数のグラフを注視すると、一四二〇年の春から夏にかけての降雨日数の少なさもさることながら、それとは対照的に同じ年の秋の降雨日数の異常な多さに嫌でも目がいく。実際、応永の大飢饉の場合、四月から八月にかけての旱魃が飢饉の主要因であったことはまちがいのないのだが、その後の展開を追ってみると、それに追い討ちをかけた九月から一〇月にかけての長雨や台風の被害も無視できないようなのである。応永の大飢饉に限らず、ほかにもいくつか日本史上の巨大飢饉の現実の展開過程をみてみると、冷害か旱害のどちらか一方だけというよりは、ひどいものほど夏の旱魃と秋の長雨がダブルで起きており、それが巨大飢饉を巻き起こしているように思える。だとすれば、あるいは、そもそも一つの飢饉をこれまでのように「旱害型」と「冷害型」に二分類すること自体、どこまで有効なのか、ということが問われなければならないのかもしれない。つまり、実際の飢饉の原因は、かなり複雑な様相を呈していて、それが冷害とも旱害ともいえない不安定な異常気象の中で起きる場合が多かったようなのである。この点は予断を排して、今後、一つ一つの飢饉の被害地域や原因に即した究明が必要とされるだろう。p.74-5

 古記録に記録された京都の降雨日数と現代の比較からは、夏の旱魃だけでなく、秋の長雨も目立つという。

 こうした当時の朝廷と室町幕府が密着した政治の形態を、とくに研究者は「公武統一政権」とか「公武融合政治」とよんだりするが、両者の関係はもちろん対等なものではない。この時期の公・武関係は、いわば朝廷が幕府によって政治的・経済的に“丸抱え”されているような状況にあった。
 これは一見すると、室町殿が朝廷を意のままに牛耳ることができるのだから、室町殿にとってこれほど結構なことはないように思える。しかし、そのために室町殿は厄介な問題も少なからず背負い込まされることになった。いってみれば、室町殿は、守護や国人(地元の有力武士)といった武家のまえでは彼らの利益の代弁者の顔をしながらも、同時に公家や寺社のまえでは天皇にかわって彼らの利益の擁護者として振舞わなければならないという、なんとも微妙な立場に置かれてしまうことになった。この室町殿のもった二面性は、室町幕府が終生にわたって抱え込むことになったジレンマでもあり、このあと現実に政権にとっての手かせとも足かせともなった。p.78

 結局、この利益相反の問題は、中世を通じて存在し続けたんだよな。大内氏が出雲で大敗したのも、朝廷と国衆の権益の問題だったと、黒嶋敏編『戦国合戦<大敗>の歴史学』で指摘されているしな。




 文献メモ:
田村憲美「中世における在地社会と天候」『在地論の射程』校倉書房、2001
原田信男「中世の気候変動と災害・飢饉」『東北学』8、2003
伊藤啓介「割符のしくみと為替・流通・金融」『史林』89-3、2006
田村憲美「死亡の季節性からみた中世社会」『日本中世村落形成史の研究』校倉書房、1994
西尾和美「室町中期京都における飢饉と民衆」『日本史研究』275、1985
鋤柄俊夫「土器と陶磁器にみる中世京都文化」京都文化博物館図録『京都・激動の中世』1996