- 作者: 黒嶋敏
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2013/09/11
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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うーん、困難な課題に挑んで、案の定、切り込み切れなかった感じがあるなあ。
「ナワバリの論理」がブラックボックス化してしまっている感じがする。そもそも、本書で言う「海の勢力」、海賊、水軍、海の武士団などなど様々な言葉で表現される人々が具体的にどのような人々であったのかを明らかにできていない状況では、どうしても、隔靴掻痒感のある議論しかできないような。
そもそも、この「ナワバリの論理」が強敵すぎるのだよなあ。洋の東西を問わず、人間社会に普遍的にある思考だけに。齋藤慎一『中世を道から読む』 によれば、陸上交通でも、使者の往来のために安全保障の手配が必要だったようで、やはり、ここに「ナワバリの論理」が現れている。日本だけではなくて、例えば中世ヨーロッパでも、交通は水陸ともに障害が多く、有名なシャンパーニュの大市では、シャンパーニュ伯による「護送」が行われていた。あるいは、海上貿易に関しては、フレデリック・レーンの「プロテクション・レント」の概念があったりする。中世ヨーロッパの交易商人が特定の宿を常宿として利用していたのが、その保護機能を期待していたという指摘があったり。
逆に、「異人歓待」みたいな慣行があったり。
まあ、こういう、知らない土地で、どういう対応をされるかわからないということ自体がリスクで、相手先の有力勢力と保護関係を結ぶということが行われたのだろうなあ。その、中世日本の海域での表現が津料という形であったと。
ナワバリの論理で交通が阻害される一方で、広域なネットワークが安定して存在していたのも確かなわけだし。そうでなければ、全国の荘園からの年貢の収取で、京都を中心とした経済圏が維持できるわけない。
そのあたりの、オンとオフの差が明確化されないというか、阻害的側面を強調してしまっているから、違和感があるのだろうか。結局、史料に残るのは、だいたいトラブルだから、そこでバイアスがかかっちゃう側面はありそうだなあ。
あと、気になったのが、神仏の力の過小評価。インフラ整備に、少なくとも名目として、勧進聖を表に出さざるを得なかったこと。和賀江島や兵庫津の管理を寺社にゆだねなくてはならなかったことが、まさに宗教のパワーだと思うが。広い範囲の人々を納得させるのに、神の名目は重要であった。
全体的な流れとしては、自力救済的なナワバリの世界である海の世界が、近世的な「公儀」によって制圧されていく過程。
徳政や軍事的編成で支配下に入れようとした鎌倉幕府。全国に張り巡らせた「例の秩序」で名目的に支配下に入れつつ、「海の勢力」と癒着した室町幕府。「公儀」として自力救済を抑えようとする戦国大名権力から天下人の出現の中で、押さえつけられ、最終的に豊臣政権下の海賊停止で決定的に変質する「海の勢力」といった流れ。
武士化した「海の勢力」が少なかったのは、武士としての勤務があまり魅力的でなかったからという終章の指摘は納得できるなあ。というか、「帰農」して在地の有力者になった人々は、陸でも多かったわけだから、そういう意味で、海の勢力の人々の選択は、特殊なものではないのではないだろうか。
あと、自力救済の世界である「ナワバリの論理」を、近世の公儀は否定したわけだが、では、古代ではどうだったのだろうというのが気になるところ。平安時代までは、どのように、ナワバリの論理を抑えていたのだろうか。
「公儀」としての戦国大名という考えも興味深いが、一方で、地域的領域勢力である戦国大名は、海上輸送・連絡を軽視できた側面はありそうだなあ。あちこちに分散的に所領を持つ鎌倉時代の有力御家人のほうが、安定的交通に気を配る必要があったのではなかろうか。