斎藤慎一『中世武士の城』

中世武士の城 (歴史文化ライブラリー)

中世武士の城 (歴史文化ライブラリー)

 うーむ、読み終わってから、すでに二ヶ月くらいたっているような。後回しにするうちに、えらく時間がたってしまった。


 現在、戦国時代の「城」としてイメージされる、土塁と堀で形成される防御施設が、比較的新しい時代に発展したものであること。それ以前に、「城」と表現されるものが、もっと広い領域を指していたことを指摘する本。


 現在イメージされるような「戦国山城」は、15世紀後半、戦乱が恒常化し、また、国衆の一族の分裂を経験する中で、一族と家長の地位を確実に保持するために建設されたものであることが指摘される。
 それ以前には、動乱時に、臨時に設置されるものであり、比較的簡素なものであった。実戦の記録では、「壁」が頻出し、どういうものかは分からないが、壁が防御施設の中心であったらしい。また、武士の屋敷は、基本的にはそれほど防備されていなかった状況も紹介される。一般の百姓屋敷と区別が付かない程度のものであったらしい。
 また、臨時に設置されるバリケード的なものが城塞と観念され、それの設置は静謐・平和状態の破壊として、平時には忌避された。悪党の「城を構え」は、まさに、それそのものが軍事行動であったと。


 後半は、武士の「城」がある程度、モデルを持った領域的な存在であったことを、各地の武士の拠点の発掘成果などから、明らかにする。京都の鳥羽あたりの院御所がモデルで、平泉、鎌倉と、政治的拠点の都市計画モデルが応用されていく。東西向きの谷の中に、必要な施設一セットをそろえた武士の拠点は、初期の鎌倉をもでるとして形成されていると指摘される。
 武士の居館だけではなく、武芸の修練を行う馬場、地域の人々を含めて極楽往生をかなえるための阿弥陀堂と浄土式庭園、現世利益をもたらす顕密仏教の寺、奥に万が一のための要害など。それらが交通や地域支配のための施設と重なったものが「中世武士の城」であった。
 戦乱の悪化とともに、山城の建設が進むが、地域の政治経済中枢である「政所」は、様々な施設がすでに存在し、移転は難しかった。むしろ、要害が一時的なものとして期待されていた。しかし、戦国時代の戦乱は長引き、拠点集落の城下への移動という方向に時代は進んでいく。
 また、戦国期の山城も、内部に宗教施設を持ち、安穏の空間の性格を持っていたという指摘も。


 現在の意味の「城郭」は、ホント、ちょっとの間に発展して、役割を終えていった存在なのだな。200年くらい? それ以前に見当たらないわけだ。
 しかし、市立図書館のちょっと古い日本史の本、汚れているのが多いなあ。誰が汚損しているのだろうか。本当に迷惑。図書館の本をシミだらけにするとか、どういう神経しているのだろう。

 六〇〇巻に及ぶ経典を新規に揃えることは容易なことではない。書写の苦労がいかなるものであったかは現在残る『大般若波羅密多経』の奥書が如実に語っている。ましてや開版となると資金・労力ともに莫大なものを要する。この懸案を克服するために経典が売買されていることも知られている。『大般若波羅蜜多経』は地域間を動くものだった。その一つの動き方でもっとも劇的な形が戦国大名による略奪ということになる。略奪してまでも揃えたい。『大般若波羅蜜多経』に期待する霊験は実に大きかった。p.138-9

 へえ。現世利益を得るために、大般若経の入手が希求された。で、戦争で略奪なんかもあったと。それだけ、宗教の政治的な意義が大きかったのだな。