竹井英文『戦国の城の一生:つくる・壊す・蘇る』

 出力が足りなくて、いろいろと手につかないので、スーファミシヴィライゼーションを一周することにしました。最大大陸で、散在する諸勢力との争いってパターンは、成長が遅れるな。遠いからって放っておくと、ユニットが出没して、開発を邪魔されるし。とりあえず、最大大陸は、首の皮一枚勢力を除いて制圧。大陸横断鉄道完成。別大陸の最大ライバルを殲滅といったところ。
 夕方から雨。つーか、雨降る予報じゃなかったような。


 今日の読書ノートはコレ。

 戦国時代の「土の城」がいかに築城されて、維持され、放棄されたか。
 つーか、現代の視点から見れば、「余生」というか、放棄された後のほうが、よっぽど長い気がする。
 あとは、「杉山城問題」の影響。杉山城の年代観の問題を受けて、中世城塞のライフサイクルに視野を広げているのがおもしろい。


 最初は、当然のごとく誕生。築城について。
 地元の有力寺院に史料が残された群馬県太田市金山城や武田氏の史料が残る信濃上原城では、2か月ほどで城が概略機能するようになる。で、館などの造作に5~10か月ほど。簡単な陣城だと、数日で防御機能ができて、完成までに二週間ほど。築城の最初に行われる、「鍬初」「鍬立」といった儀礼の存在。築城のためのマンパワーは、武士に知行役と百姓にかけられる公事の二本立てで調達された。また、築城や維持のための用材は、確保する場所があらかじめ指定されていた。あとは、大量の竹を必要としていたなどなど。
 戦国時代の築城の姿を伝える史料としては、『築城記』という築城の教科書が伝来している。塀や櫓、柵などについては、詳しく記述されているが、土塁や堀、全体デザインに関わる情報は少ないという。このあたりは、秘伝として、直接口伝されていたってことなのだろうか。ここらあたりが文献史料上でブラックボックスになっていることが、縄張研究の評価を難しくしている感はあるなあ。馬出や横矢の設計が、どこまで意識されていたのだろうか。
 城内の植木の問題が興味深い。土塁の内側には、竹木が植えられている。『築城記』でも、植えてしかるべしと書かれているという。用材の供給や雨除けといった実用的な理由のみでなく、城主の繁栄のシンボルとして、心性の面で重要であったという。この辺の考え方の違いが面白いなあ。
 あとは、「築城をめぐる諸問題」として、「戦国大名系城郭論」の妥当性について触れられている。北条や武田といった東国の大大名が、それぞれ、独自のパーツ構成で城を築いたという考え方が、仮定の問題が多すぎる、と。書物による築城技術の流通や築城技術者が諸国を流れ歩いていた状況が紹介される。そもそも、中近世に、土木技術がどこに蓄積されていたかは難しい問題ではなかろうか。近世の「地方巧者」のような民間の技術もあるし。
 あとは、立地の問題。地元住民の用益や宗教的重要性を持つところでは、築城が難しくなる場合がある。一方で、聖地だからこそ、築城の場所とされた可能性。このあたり、「聖地」の定義で、議論が深まっていない。あとは、交通路と城の立地の関係など。


 二番目は城のメンテナンスについて。駐留部隊の人事とハードウェアの維持管理の両面で、城を維持するには、なかなか手間がかかる。
 津久井城の城掟を題材に、駐屯する部隊の管理の問題が紹介される。出入りの制御。外部から入ってくる人間を制限するのは当然として、出るほうも、管理される。内通される危険を考えれば、当然の配慮ではあるか。宴会の制限など、内部の風紀の維持も重要だが、こういうのは制限しようとして制限できるものではなかった。
 地元の国衆と戦国大名の微妙な関係も。
 ハード面でも維持が大変。燃料の確保は、地元の用益や敵地へ入ってしまう問題もあって、細かく決められていた。また、大量の武器弾薬、兵糧が蓄積されていて、これの管理も課題だった。兵糧は常に潤沢にあるわけではないし、あったらあったで給料代わりに配られてしまう危険もある。
 城内の清潔の維持も重要。城掟にも、城内の掃除に関する記述が残る。屎尿の廃棄は、遠矢の射程の外に捨てると規定されていたりする。後のほうで、発掘で遺物が出てこない城の話が出てくるが、実際に城のライフサイクルを厳密に確定するには、城のゴミ捨て場の発見が必要なのかも。もっとも、ずいぶん広い範囲を探す羽目になる上に、城の外はのちの土地利用で掘り返されている可能性も高いが。しかも、大半は腐って分解するものだろうけど、陶磁器片も多少は出るのではなかろうか。
 土塁や土塀は、風雨で劣化していくものであり、日常的なメンテナンスが必要であった。また、大雨などにあえば、崩壊してしまうことも。その修復には、かなりのリソースが必要であった。損害の度合いによっては、陸奥赤坂城のように、移転という選択もありえた。


 ここから先は廃城から「古城」と復活。むしろ、廃城になった後の記述が長いのがおもしろい。
 廃城の処置「城破り」にも、いろいろ程度があった。建物の撤去は基本として、土塁や堀の破壊まで徹底的に行った城もあれば、虎口など目立つ場所を破壊したのみの場合もある。むしろ、後者のほうが基本であった。
 城の持ち主が変わったことを象徴的に示すために、竹木を切り取りや建物への放火。竹木は、城主の繁栄の象徴であるため、竹木の切り取りは、刑罰的な意味を持っていたのではないかと、大和古市城の事例をもとに紹介する。また、自ら火をつけて落城する行為は、敗北を認める儀礼的な意味もあったという。
 そして、「廃城」は、城の生命の終わりではない。情勢の変化によって、城は再利用される。城は、どこでも作ればいいというものではなく、要害の地は希少。拠点として長期に利用された城を除けば、多くの城が、必要に応じて整備されるような性格のものであった。その城が必要とされるような情勢にならない限りは、「古城」となっている時期が長いものが多かった。
 また、「古城」というのが、単純に打ち捨てられていたものではなく、戦時の必要時には、10日ほどの短期間で再利用できるように、一定の管理が行われていた。大名や武士たちは、管轄地域の古城を、軍事的施設として把握していた。


 しかしまあ、南北朝時代の城砦を再整備の上で、利用とか、「古城」のタイムスパンは非常に長いものなのだな。中世城郭の場合、どの施設が、いつ整備されたかも考える必要がある。
 また、再利用されない忌み嫌われた城、逆に「吉例」として記憶されていた城もある。


 近世に入ると、武力行使禁止のもとで、「古城」も統制されていく。特に、島原・天草の乱原城を再利用されてしまった九州では、古城の徹底的な破却が行われた。また、忘却されていく城も。一方で、有事のためや先祖の顕彰のために古城の整備が続けられ、また、鹿児島の麓や仙台藩の要害や地域有力者の屋敷として、事実上の城が維持される例もあった。
 そして、近代に入って、地域のシンボル、史跡としてよみがえる城もあると。
 むしろ、「古城」となってからのほうが本番って感じがするな。

 こうした理由とは異なる見解も提示されている。それは、城主の繁栄のシンボルとしての竹木という見方である。このことを深く追求した中澤克昭氏によると、中世において竹木は家の繁栄のシンボルとして認識されており、それは戦国時代になっても変わらず、城郭にとっても必要不可欠な要素になっていたという(中澤1999)。中世の人々の心性面から、城と竹木の関係に迫っている点で注目される。p.31

 興味深い。


 文献メモ。本だけ。
齋藤慎一『中世東国の道と城館』東京大学出版会、2010
中井均・齋藤慎一『歴史家の城歩き』高志書院、2016
服部英雄他編『原城島原の乱:有馬の城・外交・祈り』新人物往来社、2008
中澤克昭『中世の武力と城郭』吉川弘文館、1999
藤木久志・伊藤正義編『城破りの考古学』吉川弘文館、2001