- 作者: 矢田俊文
- 出版社/メーカー: 吉川弘文館
- 発売日: 2008/12/01
- メディア: 単行本
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中世の基本的な同時代史料といえば、京都の公家の日記類だが、その視野が京都近辺しかないため、京都以外の被災に関する情報はごく限られる。なんか、もう、14世紀あたりになると政権を担当するという意識もないんだな。
また、理科年表に採録されている地震被害の情報が、どのような情報源から得られているかの紹介。後年の編纂史料でも、他の情報源と突き合わせて、どのような被害があったかを確定する。
最初は、地震に関する史料の紹介。やはり、同時代に付けられた公家の日記が一番信頼の置ける情報源だが、その情報は関西近辺の情報しか記載されていない。古文書や勧進帳、地域の歴史記録、編纂史料や近代に入ってから作られた寺社明細帳といった史料を駆使して、解き明かしていく。
最初は、1096/99年の地震。南海トラフの地震は、東側の東海、中央の東南海、西側の南海の三つの領域が連動する。だいたい、東側と西側の二つの地震が、数日から数年の間を置いて起きたパターンが多い。このときの地震は、三年の間をおいて発生したようだ。
関白藤原師通の日記には、さすがに京都以外にも目配りした情報が記載されていて、駿河国では津波で「百姓四百余流失」といった被害があったという。また、当時、右中弁だった藤原宗忠では、内裏の諸施設を見回っている。この時期には、まだ、内裏の建物がけっこう維持されていたのだな。
1099年の地震では、紙背文書から土佐で千町あまりの田地が沈んだことが明らかになる。
続いては、1361年の地震について。
三条公忠の『後愚昧記』では、大阪の四天王寺の被害を、左大臣近衛通嗣の『後深心院関白日記』では熊野社の被害が記されている。
また、太平記や法隆寺の記録『嘉元記』から、大阪湾岸、四天王寺すぐしたの当時浜辺だった地域が、津波で大きな被害を受けたこと。同じく太平記に記される阿波の由岐湊の記載について、当時、それなりの大きな港湾が存在したことを他の史料から確認し、このような被害があった可能性が高いとする。
中世最後の巨大地震、1498年の明応地震。
太政大臣近衛政家の日記『後法興院記』には、さすがに太政大臣らしく、伊勢、三河、駿河、伊豆といった東海道筋の諸国の津波被害が記載されている。一方で、他の同時代の日記には、京都の情報しか描かれていない。
後にまとめられた編纂史料や、近世に記述された寺社・家系の移転伝承、考古学の発掘による遺構の存続時期などから、伊勢の安濃津、駿河の小川湊、静岡県磐田市の元島遺跡、浜名湖岸の遠江橋本、紀伊和田浦など、津波被害などによって再起できなかった港町の状況を明らかにする。けっこう、地震被害による町場の移転って、多かったのだなあ。
最後は、近世に入ってからの南海トラフ地震がどのように記述されたかの紹介。
1605年の慶長地震は、公家の日記や戦国武将の書状、発掘成果など、中世と変わらない情報源である。
一方、18世紀に入ってからの宝永地震、19世紀の安政地震となると、情報源は一気に豊富になる。さまざまな階層の武士の日記、各種の書状類、行政史料など残されている。この時代になると、現代まで地域で家が維持されるようになったってことでもあるのだろうけど。
あとは、公家の日記とは違う網羅的な興味のあり方が興味深い。尾張藩士朝日重章の『鸚鵡籠中記』では、各地の被害情報を収集して、網羅的な記述が行われている。このあたりの情報の広域流通が、中世と近世の知のあり方の違い。
また、地震直後に家族の安否確認に走る姿など、個人の災害時の行動なども見えるようになってくる。