東京大学史料編纂所編『日本史の森をゆく:史料が語るとっておきの42話』

 タイトルの如く、史料編纂所の職員が、史料と関わる中で興味深いと思ったことを紹介する本。直接、史料を扱う中から生じた疑問から、過去の人々の思考や慣習なんかが見えてくる。42の文章は、5章、史料論、海外交流、朝廷と貴族、武家政権武家、民間社会の枠組みに分けられている。それぞれの話から、史料を通じて過去を見るということが擬似体験できる。個人的には一章の史料の話と四章の武家関係が興味深かったかな。


 第一章「文書を読む、ということ」は、史料そのものに関連する話を集めている。反故を再利用した紙背文書の可能性、捨てられたものが残ることでもたらす情報の貴重さが印象的。特に最初の正倉院文書から抽出される情報や次の俊寛自筆書状の発見の下りなどは特に。あるいは、「バサラ」の意味の変遷。江戸時代の太平記解釈の結果、南北朝時代のバサラの諧謔性が見逃されたという。
 「不完全な文書の魅力」や「手紙が返される話」といった、書状関連も興味深い。送られてきた手紙の裏に返事を認めて返す習慣や、近世には実務関連の手紙に関しては返事のときに元の書状も一緒に送り返されていたらしい。前田家の家臣が主君から送られてきた仕事関連の書状を、受け取った旨の文書を添えて返却していたこと。そのうち、面倒なので家臣のところで処分するようにと言われ、そのなかで当たり障りのない手紙が、主君の形見として残されることになった。ある意味、普通の文書とは逆の残り方だな。


 第二章は、海外交流関係のテーマ。古代にペルシャの剣が何点か伝来していたらしいとか、航海図を現地比定するこころみ、あるいは遣明船でやり取りされた一休関係の書画とか。
 「杭州へのあこがれ、虚構の詩作」が興味深い。歌枕的な心性。明への使節として派遣された僧たちが、杭州の名所を回るために必死だったとか、歌枕を回った証しに見てないことでも詩作するとか。結構後代まで、こういう歌枕的心性は残るよなあと。


 第三章は宮廷と貴族に関連するテーマ。聖武天皇の葬列に使われたとおぼしき装飾品が今に残っているのか。裏松固禅の故実研究が、現在の京都御所の姿を作り上げたとか。近世の朝廷の財政が、幕府の支援の下に維持された状況。
 儀礼の次第を記した日記が貴族の地位の維持に非常に重要であったこと。家格の上昇のためにもきっちり日記を残すことが重要であったことが、正親町三条家を事例に紹介される。


 第四章は武家関連。頼朝と巌窟信仰の関係、南禅寺のほかに西禅寺・北禅寺があった話、室町期の徳政令の法文が二種類あった話、島原の乱に参加した浪人の姿など。
 鎌倉時代の裁判を扱った「土地裁判から見た鎌倉時代」「武士の文書作成:鎌倉時代の場合」の二編が興味深いな。鎌倉時代が、荘園開発による新規開拓が頭打ちになったため、支配権をめぐる係争が頻発する時代となったこと。後者は、全国で一律の文書作成が行なわれたが、これには鎌倉や京都、博多など、鎌倉幕府の裁判が行なわれる都市に、文書作成サービスや法的な助言を行なう専門サービスが成立していて弱小の御家人はこのようなサービスに依存した状況が紹介される。有力御家人は僧形の右筆を抱えた一方で、それができない弱小御家人は専門業者のサポートを受けたというのが、興味深い。


 第五章は中世後期以降に成立した「村」や「町」をめぐる話。百姓の政治的な自己主張や薬師寺の在地社会との関係、江戸城の空間構造など。
 戦国末期の村祭りの光景を扱った「村祭りの光景」が興味深いな。伏見城が建設される前の伏見庄の祭りの姿を「看聞日記」から復元しているが、風流という造り物が出され、それには漢詩から題材をとったものや歴史的事件を扱ったものがあり、古典的教養や歴史的知識が地域のかなりの部分まで広がっていたこと。あるいは、祭りでは猿楽が興行され、その桟敷の席次が地域の威信関係を可視化したという。
 「『篠を引く』『篠引』の意味の変容」も興味深いな。中世には家を閉鎖するという行為であったものが、近世には差し押さえや権益の囲い込みを意味する行為にる。また、謹慎の処罰の際に、それを示す印として、篠引が行われるようになると言う変遷。
 「数珠がつないだ商人たち」の、京都や近江八幡高野山の数珠商人たちのネットワークの復元も興味深い。辛うじて残った店に残された史料から、かつての姿を復元している。


 以下、メモ:

 近世前期における焼物産業の発展という現象に関連して、豊臣秀吉朝鮮侵略のために出兵した諸大名が、領内の焼物業を発展させる目的で朝鮮半島から連行してきた陶工が、各地の「陶祖」になったという説(いわゆる「焼物戦争」論)がある。しかし、同時期に連れてこられた数万人ともいわれる人々の中で、陶工であることを主たる理由として大名に連行されたことを、一次史料において確認できる例はない。一方では、秀吉の出兵以前にも、朝鮮南部から九州北部に向けての陶工の渡来や技術移転の痕跡があったことが指摘されている。そうであったとすると、侵略は、平和時に進みつつあった技術交流を、むしろ中断させる意味を持っていたともいえる。p.45-6

 へえ。「陶祖」言説は後代に作られたものだったという。中世末には、民間ベースの技術移転が進んでいた可能性が高いと。そういえば、肥前磁器の生産も、明末清初の華南地域の混乱で中国産磁器の輸出が滞って、その代替生産地として中国側からの技術と資本の投入が行なわれたって話を読んだことがあるな。どの本だったっけ。
文献:小宮木代良「『陶祖」言説の歴史的前提」北島万次他編『日朝交流と相克の歴史』校倉書房、2009
   小宮木代良「『陶祖』言説の成立と展開」『九州史学』153、2009

 嘉禎三年というのは、ずいぶん早い例になるのであるが、「下地中分」、つまり土地を二つに分割することによって本所(上級領主)と地頭(下級領主)との競合を解消しようとするおは、十三世紀後半には一般的傾向となった。もともと、地頭(その前身が下司)が下地を支配して本所が年貢を受け取るという体制は、十二世紀に大開発が進展して荘園制が形成されてくる過程で成立した経営方式である。十三世紀に入るころから開発の限界が見え始め、経営の集約化の方向に転じると、本所と地頭とが経営をめぐって対立するようになった。これが鎌倉時代に裁判が頻発した一因である(ほかに、地頭一族間の紛争も大きな問題であるが、これも開発の行き詰まりにより分割相続を継続することが不可能になったことによるものであった)。言い換えれば、土地裁判を時代の特徴とする鎌倉時代とは、十二世紀の大開発により形成された荘園制が、重層性を解消して落ち着くまでの過渡期なのであった。p.141

 鎌倉時代が、大開発時代から停滞の時代に入り、所有権の重層性を解消する過渡期であったという話。