第5回熊本被災史料レスキューネットワーク講演会「学んで守ろう熊本の歴史遺産:被災史料が語る井寺古墳:未指定文化財と国指定史跡の間」

 県立美術館で、開催された史料ネットの講演会。5回目だそうだが、途中、3回スルーしてしまっているな。アンテナが下がりまくっている。


 最初は、稲葉先生の挨拶。今回は、「念願の」考古学とのコラボだそうで。確かに、今までの井寺古墳の調査成果と比較して、失われた情報を補う。そこから、新たに、元の状況の推測が興味深かった。また、地道な目録作成作業からの大発見ということで、基礎研究の重要性が強調される。


 発表は、熊大の三沢純准教授の文献史学の側からの話と嘉島町教育委員会の橋本剛士氏の考古学側からの話。


 最初は、橋本氏による井寺古墳の概略と被災状況の紹介。
 独特の直弧文。円墳とされているが、墳丘の形は、いびつな形。1916年に京大によって調査されているが、1900年ごろに盗掘によって徹底的に破壊され、原状を留めていない。
 熊本地震では、墳丘に亀裂が入り、内部のドーム上の石室の入り口に近い側が陥没。それによって、崩れた石材が、入り口側に崩落して、扉をふさいでいる状況。現在、立ち入りができなくて、デジカメを差し込んで、大量の写真で3Dのデータで、内部の状況を知る状態なのだとか。
 県立美術館1階の装飾古墳室に、井寺古墳の石室のレプリカがある。ちょっと、暗くて、ピンボケしているが。石室がドーム状になっていることが分かる。あとは、独特の直弧文など。これが、破損している状況。全部掘り出して、組み立てなおすしかないんじゃなかろうか。しかし、それは史跡としてふさわしいか、悩ましい。





 二番目は、三沢純氏による、有馬家文書の紹介。
 井寺村の庄屋であった有馬家から、売却された文書を、匿名の収集家が購入。熊本地震で、保持しきれなくなって、レスキューネットに相談。寄贈されることになった。その後、目録化作業が2016年初夏から始まり、2018年9月に1649点と確定。
 有馬家文書の特徴としては、売却時に仕分けされて別に売却されたのか、行政文書の書冊の類が欠如していること。大半が、「有馬次郎助」宛ての公用書状である。また、連絡用の書状のため、年紀や月の記録が欠如していることが多い。年紀が表記されている史料は、1810年から1870年で、19世紀前半の書状がメインらしい。薬袋を解体して、裏紙を会計のメモに使った史料がおもしろい。エフェメラコレクター的には、もともとの薬屋の印に惹かれるものが。
 井寺古墳関係の史料は、3点。安政4年5月または閏5月16日に書かれた、古墳発見と出土品の報告の草稿。同じ時期に書かれた、古墳の外観と内部の状況について報告した書状草稿。これは、上申書の下書き。正文は、惣庄屋、郡代、奉行と報告され、上層部で検討。その後、対応を指示する文書が6月6日に帰ってきて、出土した副葬品を元に戻すこと、古墳への出入りを禁止する旨がかかれている。副葬品としては、槍身、鉄剣五本、鏡、鉄鏃30-60点などが存在。そのうち、鏃は放置されて、継続的に持ち出された、と。


 最後は、再び橋本氏で、考古学側から見た有馬家文書の意義。
 安政年間の発見時に、いったん、副葬品が取り出され、その後戻されると、原状が改変されている。また、明治35-6年ごろ、盗掘され、内部が徹底的に破壊。かなりの石材が持ち出されている。その後、大正時代になって、京大による考古学的な調査が行われているが、それは、破壊後の姿で、それ以前の状況の手がかりはない。
 しかし、有馬家文書の記述は、発見直後の姿を描いていて、失われた情報の手がかりになる。報告書草稿に書かれた、内部の施設の各種寸法は、その後の調査によって作られた図面に当てはめて、矛盾しない。また、京大が行った聞き取り調査とも、それなりに一致する。
 また、熊本藩の御用絵師狩野家に伝わる、鏡の拓本史料と記述が一致していて、これも新しい手がかりになりうると、宙に浮いていた史料を結び付ける可能性もある。
 発見当時の石室の姿を精確に記録する、一次史料として貴重と。一方で、後の調査や聞き取りとの矛盾があって、そこは調査課題と。


 江戸時代には、石室の出入りを禁じる命令が出ていたが、明治なって、その命令が機能しなくなり、カジュアルに石室に出入りできるようになっていた可能性。地誌によれば、鏡を嫁入り道具として持たせたら、顔が歪んだなんて記述があるように、簡単に持ち出せるようになっていた。出土の鏃は、あちこちに拡散している可能性。その鏃が、年代特定に役立つかもしれない。
 あと、遺骨は、村内の墓地に埋葬され、どこにあるか分からない。こちらも、あれば手がかりになるのだがという話。