鍛代敏雄『戦国大名の正体:家中粛清と権威志向』

 戦国大名がどういう条件で存続していたかを探った本。エピソードを羅列するスタイルなので、途中で息切れしかかった。特に、第2章の「大名の条件」が長かった感が。個別の紹介されるエピソードは、おもしろいのだが。


 第1章は家臣団統制の話。父子兄弟間対立や一門、重臣の粛清を通じて、家臣団をまとめ、武威を強調した。一方で、家臣団の側にも一揆的な結合があり、度が過ぎると、当主が追放なり殺害なりされることになる。粛清と一揆的結合のバランス。
 家臣団の横のつながりが薄かった織田信長は、そういうところで、動きやすかっただろうな。


 第2章は、「大名の条件」として、戦国大名のいろいろ。
 まとめにくいけど、「自己の力量」による排他的な支配の達成。「国家の安全保障」を旗印に、戦争を遂行し続けることで、国家が維持された、「軍事国家」であったという指摘。分国法が、守護大名系の戦国大名に顕著な法令で、軍役や家臣団内部での私戦の抑止などを目的にしていた。あるいは、分国の経済センターとしての城下町など。
 「分国の静謐」という概念が、後に「天下静謐」として、信長や秀吉の全国支配の大義に応用されたという指摘も興味深い。
 前半の、「大名と小名」、「大名の国家」、「分国とは何か」、印章や称号の話も興味深い。


 第3章は、戦国大名の分国を超えた全国単位の権威のあり様について。
 「外聞」と「面目」が、行動原理として重要だったこと。また、戦国大名は、分国内は、「事故の力量」で権威を独占する一方、全国レベルや大名間では、全国規模の権威である将軍や朝廷をそれなりに重視し、官職や位階、服装や称号などを、それなりの金銭と引き替えに入手、他の大名と競っていた。
 後半の、信長の天下観の変遷もおもしろい。最初は畿内の将軍の権威=公儀の再建が目的だった。しかし、将軍義昭の迷走を見て、「外聞」の一言で、天下と公儀を粉砕。将軍を追放。その後、「天下静謐」の用語とともに、視野が全国規模に移っていく。天正五年に日本の統一構想に動き出したと指摘する。そして、そのような概念の変化とともに、主君の武威を高揚させる「武辺」という語が強調されるようになる。


 第4章は、文化やイデオロギー。天道と「正直」。文芸と茶の湯の重要性など。


 以下、メモ:

 要するに、今川家が認可しないかぎり、分国内に「不入」(不干渉の地および不介入の権益)はありえない。たとえ、朝廷・幕府将軍家や有力寺社による保障、一門・譜代・国衆らの許認可があったとしても、今川家の判物の有無が絶対条件となる点が明記された。守護不入を完全に排除するものではないけれでも、分国の頂を自力で極めた戦国大名今川義元が、独立した地域国家の「公儀」を宣言したところが戦国大名の意気地だ。p.74

 今川氏の分国法で、「自分の力量」で国を維持しているため、自分こそが「公儀」だと宣言したという話。「主権」が実現していると。

 このように戦国大名の家中の法には、一揆の法と共通している部分がある。戦国大名の権力構造は、家中の合議制(「衆議」=寄合談合)を前提に、大名御家の家督(国主)と親族を含む宿老衆(重臣会議)との相互補完、および主人とその直属吏僚の側近奉行人衆との均衡の上に立脚していたと考えられる。このような戦国大名のいわば一揆的な構造は、一方で専制化しようとする大名の家督を規制するものだった。p.102-3

 家臣団の一揆的結合の重要性。

 戦国大名による軍役体系の創出は、いわば軍事国家の証である。だとしれば、戦国大名にとっての戦争は、国家の安全保障を大義としながら、自己の権力を維持するために遂行されたといわざるをえない。p.110

 この種のマッチポンプは、時代を問わないと。

 天下とは主に京都のことであり、さらに天皇および将軍による中央政権のことを指していた。天下国家とは、中央の天下と地方の国家のことをいう。だから「天下統一」とは中央政権の安定、「天下静謐」とは朝廷を中心とした中央政権の平穏を意味する言葉だった。
 これらを考え合わせると、やはり戦国大名には、独自の天下統一の構想はなかったものと判断せざるをえない。ましてや、日本列島の統一などといったことは、夢のまた夢だった。京都政権にしても、信長以前では、将軍や公方を奉じて、管領細川氏と連合して一時的に京都政権を創出した大内義興や六角定頼・義賢父子、また三好長慶らを除けば存在しない。したがって、全国統一政権を構想して、本拠の居城や城下町を放擲し、次々と居城を移しながら首都を目指すとか、地方に全国区の拠点を建設するといったようなことは考えもしなかっただろう。戦国大名たちは、分国の拡張範囲と家臣の強固な土着性や、政治経済センターとしての城館および城下町のキャパシティーは充分に承知していたはずである。p.142-3

 戦国大名たちは、基本的には自分の分国しか考えていなかったという話。

 宣教師たちの手紙は面白い。「武士は富よりも名誉を大切」に思っている。武士が領主に臣従するのは、「背いた時に自らの名誉を失うと考えるため」といった記述がある。戦国期の武将が名誉心に執着していたことがうかがえる。外聞へのこだわりが想像できるだろう。尼子家臣の『多胡辰敬家訓』にも、「外聞」と見える。すなわち、濁世だからこそ、「我が心にて外聞直ぐならんと嗜な共、良きほどは負かるべし」とある。意味深長だが、武家の正直なる外聞(名誉心)をもって生き通せない、そのジレンマが奇しくも吐露されているである。p.144

 あちらを立てれば、こちらが立たず。

 天正十八年(一五九〇)八月二日付け、伊達政宗が家臣の亘理元宗に宛てた書状は面白い。下野国宇都宮において、秀吉と御昵懇により天下ご愛顧の甲冑を拝領した(仙台市博物館所蔵の銀伊予札白糸威胴丸具足)。「誠々面目の至り」と述べ、家中の皆々とともに、喜ばしいことだと語っている。贈答儀礼の政治効果を推し量ることのできる例だ。このような外聞や面目が、ことさらに戦国・織豊時代の武将に共感されていた点は、名望にこだわった戦国大名の個性を探る上で重要である。p.148

 贈答儀礼の重要性。

 すでに指摘されている通り、攻守同盟の関係にあった信長と家康においては、信長の官位昇進に応じて諸札礼も変化していった。すなわち、天正元年(一五七三)までは等輩、天正五年までの間に下様=薄礼となったのである。一方の家康は、天承二年以降、信長にたいしては最厚礼の諸札礼になっていた。もはや対等の同盟ではなくなったのである。家康は、織田家中の大名として位置づけられたことを意味するのだろう。p.167-8

 諸札礼に見る、信長と家康の同盟関係の変遷。