岡陽一郎『大道 鎌倉時代の幹線道路』

大道 鎌倉時代の幹線道路 (歴史文化ライブラリー)

大道 鎌倉時代の幹線道路 (歴史文化ライブラリー)

 鎌倉時代の交通の姿を、同時代の文書や発掘調査で検出された道路遺構を中心に描き出す。外形、習俗、現地社会における道路、管理建設主体など、多岐にわたる分析から、鎌倉時代の「大道」とはどんなものかを炙り出す。
 基本的には、「鎌倉街道」などの、後世のノイズを廃し、同時代のデータから大道がどのような存在であったかを探求する。

  • 不思議な古道たち
  • 大道という名の道路
  • なにかが大道をやってくる
  • 大道と地域社会1
  • 大道と地域社会2
  • 大道と公

 以上のような構成で描かれる。

不思議な古道たち

 関東地方の鎌倉街道などと表記される「かまくらかいどう」、東北地方で東海道と表記される「あずまかいどう」が、遠隔地と結ぶ道路としてはつながっていない問題を指摘し、それがどのような存在であったかを検証する。このような伝承地名は、近世になって、村内の古道につけられたものであった。それには、江戸幕府鎌倉幕府を相似形で把握する歴史認識や同時代の関東における鎌倉の文芸などでの存在感や東北地方の「中央」への憧れが反映されている。
 「かまくらかいどう」や「あずまかいどう」が、鎌倉時代に幹線道路であった歴史事実は存在しないと指摘する。

大道という名の道路

 歴史文化ライブラリーには、章番号が降られていないが、第二章にあたる「大道という名の道路」は、「大道」の外形や認識、治安維持など。
 3メートルくらいから30メートル程度まで、大小あり、場所によっては土地の三方を囲むほど湾曲している場所もあったという。また、広くなったり、狭くなったりして、一定の規格で建設されているわけではない。道路の境界として、側溝が掘られていたなどの特徴が指摘される。
 現在でも、国道が多様性に満ちて、酷道と言われるような道もあるように、「大道」も、遠隔地を結ぶ道であること、人通りが繁華であること、牛馬が通れる道であることを満足すれば、人々にそう認識されたようだ。外形そのものは、それほど問題ではない。
 「真名本曾我物語」に描写される広い道では横に広がり、狭い道では縦列になって進軍する騎馬部隊、あるいは、源頼朝が挙兵する際に、奇襲効果を狙って裏道を行くか、人が多い道を威風堂々と進軍するかの選択の問題などの話が印象深い。
 勝手に敷地を自分の土地に取り込んだり、戦場となれば遮断され、強盗が跋扈する。危険な場所でもあった。鎌倉幕府御家人に治安維持を命じ、隠れ場所になる沿道の木々の伐採を行ったりしていた。あるいは、大道と言っても、誰かが敷地を決めていたわけではないから、水害などで地形や河道が変われば、道路も宿場も移動する。あるいは、土地の領主が、自分のほうに人の流れを引き寄せようと、新たな道路を開削して紛争になるということもあったようだ。
 ここいらあたり、わざわざ直線の広い道路を全国ネットワークした律令国家とはかなり違う感じだなあ。逆に、身の丈に合った道路とも言えるが。

なにかが大道をやってくる

 道路をめぐる習俗や宗教観念について。道路は、人間だけでなくモノノケも行き交った。交通路を移動する人や物と一緒に感染症が移動するのは古今東西変わらないが、それを、古代から中世の人々は、疫神が道路を通ってやってくると観念した。原因の分析は違っているが、道路を人間にひっついてやってくるというてんでは、経験的に正しい観察を行っているなあ。
 そこで、このような疫病など外部からやってくる悪いものを防ぐために、人々は外部との接点となるポイントに、道祖神やしめ縄、各種の宗教的な装置を設置した。福島県喜多方市の新宮熊野神社では周囲に、大般若経転読札を下げ、滋賀県東近江市今堀町では交差点にさまざまな神を祀った。
 これが大がかりになると、朝廷が京都の「境界」で営んだ道饗祭や四角四境祭といった国家祭祀となる。源頼朝をはじめとする鎌倉幕府の首脳部は、私闘で滅ぼした奥州藤原氏の怨霊を怖れていた。このため、奥州に通じる道があった場所に二階堂永福寺を建立し、東北からやってくる怨霊の防御とした。道路は、人ならざるものも通る道だった。

大道と地域社会1

 この章は、村落ないし一定程度の広さを持った地域的まとまりの中の道路の話。滋賀県の琵琶湖の西岸を一つ山を越えた、安曇川の上流葛川地域と岩手県一関市、磐井川上流部にあった骨寺村の二事例を取り上げている。
 葛川は、修験道の修行場所として開かれ、その縁で青蓮院門跡の支配地となった。また、近世に鯖街道と言われたように、日本海側と京都を結ぶ幹線で商品が大量に流れていた。また、各種の木材加工品、木灰などの林産物、狩猟漁労産物、造船、牛馬の放牧など、幹線道路とそれを利用した加工品の生産販売に大きく依存した生計を営んでいた。「どんな険阻な道路であれ、ヒトとモノが活発に移動し、沿道一帯に大きく作用していれば、それは大道と認識された(p.159)」の一節が印象的。
 骨寺村は、道路と開発が結びついた例。どん詰まりの土地に、田地を開いた土地で、その後平泉の中尊寺の所領となる。沢水や湧水を利用した小規模な水田の集積としての、骨寺村。貢納品を安定的に確保するために、尾根越えの新道を作って中尊寺との連絡に利用したが、その後、中尊寺との支配関係が途切れると、谷沿いに下る「古道」が復活する。需要の多寡や支配関係との重要性。

大道と地域社会2

 こちらは、少しミクロな鎌倉の都市内での、道路の消長。源平合戦で和田義茂が、鎌倉から小坪に抜けた犬懸坂は、現在は跡をとどめない。それが、どのように変化していったかを、杉本寺の南の犬懸谷の発掘調査の結果から、検証していく。三浦一族の一脈である幕府有力者、和田氏の拠点として巨大居館が存在し、和田氏の移動ルートとして重要視され、鎌倉東部の南北バイパスとして重要だったルートは、しかし、戦国時代に入る時期に、鎌倉府が移動し、都市鎌倉が衰退していく中で廃絶することになる。
 中世を通じて、鎌倉幕府、その後、室町時代には鎌倉府が存在し、関東地域の中心地だった鎌倉。しかし、鎌倉公方が、鎌倉を脱出し古河公方となると、都市としての鎌倉は一気に衰退していく。現在、鎌倉で幹線として維持されている道路は、その時代を生き抜いた道であった。犬懸坂は、その試練を乗り越えられなかった、と。

大道と公

 ラストは、地域間をつなぐ道路の管理主体の話。それぞれの領主の支配地域で管轄が異なっていた。自分の支配地域内では、自由に建設できるが、他の領主の支配下の場所には、「お願い」しかできなかった。
 鎌倉幕府も、権門体制の一構成要素であり、御家人にはいろいろと命令できるけど、公家の支配にある者に頭越しに命令することはできなかった。さらに、御家人や幕府以外の人間にもフリーライドされてしまう道路の修築は、命令しにくい課題であった。
 早馬など、既存の道路の利用は行われたが、幕府が管理主体として、道路の建設は行っていない。
 その代わりに持ち出されたのが宗教であった。その先駆的例としては、奥州藤原氏藤原清衡による奥大道に笠卒塔婆の設置事業があった。これによって、ルートの固定化、メンテナンスが作善行為として第三者の自発的行動に任せることができる、清衡の富強を奥州全域に知らしめることができるというメリットを享受しつつ、宗教施設ということで反発を受けにくい。
 鎌倉幕府もこのような宗教の利用を引き継いでいる。真言律宗西大寺叡尊の教団を利用し、彼らに道路の修築や架橋を行わせ、幕府は支援者として振る舞った。各地で、橋を管理する寺が建立された。寺院の建築など、木工・石材加工の技術者を配下に持つ、この種の集団は、むしろ、幕府自体よりもインフラの維持管理には優れていた。
 また、教団側は、橋の周辺に「殺生禁断」を要求し、これによって漁民など殺生に関わる生業をもつ人々に、その生業を続ける許認可権と罪悪感を慰撫する信仰心と二重の支配権を得た。
 肥後川尻で、緑川に架けられた橋は、宗教的行為であるとともに、モンゴルの襲来に対して南九州から人員・物資の動員を容易にする軍事的視野で行われた事業であるという。


 このような分散的な状況は、中世の進行にともなって、戦国大名やそれを率いる天下人と、「公」を自称する権力の領域拡大に伴って変化していく。信長代には、自己の領国内の道路整備事業までだったのが、秀吉の時代には、秀吉から管理者を出しての事業となり、近世の五街道の体制へと、「公」が拡大していく事になる。

文献メモ

上田純一「寒厳義尹、肥後進出の背景:北條氏得宗勢力と木原・川尻氏」『熊本史学』57・58合併号、1982
榎原雅治『中世の東海道をゆく:京から鎌倉へ、旅路の風景』中央公論新社、2008
藤原良章・村井章介編『中世のみちと物流』吉川弘文館、1999
五味文彦編『中世の空間を読む』吉川弘文館、1995
木村茂光『頼朝と街道:鎌倉政権の東国支配』吉川弘文館、2016
高橋慎一郎編『鎌倉の歴史:谷戸めぐりのススメ』高志書院、2017
藤原良章編『中世のみちを探る』高志書院、2004
ジャン・ピエール・ルゲ『中世の道』白水社、1991
ジョン・ケリー黒死病:ペストの中世史』中央公論新社、2008
武部健一『道 1』法政大学出版局、2003
ヘルマン・シュライバー『道の文化史:一つの交響曲岩波書店、1962