松尾剛次『葬式仏教の誕生:中世の仏教革命』

葬式仏教の誕生?中世の仏教革命 (平凡社新書600)

葬式仏教の誕生?中世の仏教革命 (平凡社新書600)

 中世に仏教僧が葬礼に従事するようになったことが、革命的な変化だと指摘する。
 第一章では、中国や韓国では仏教の僧が葬祭に従事するが少なく、日本の仏教に独特のものだと指摘する。以下、仏教の僧がどのようにして葬礼にかかわるようになっていったかを明らかにしていく。
 第二章では、古代の死者の「穢れ」の観念と庶民の風葬・遺棄葬の状況。庶民は、死ぬとほとんど路傍や河原に遺体が遺棄される状況だったこと。国家の官僚として鎮護国家に奉仕し、神仏習合によって神事に関わる官僧は、死者の穢れを忌避したことが指摘される。また、庶民に関しても、葬送を受けたいという希望があったことを指摘する。そういえば、弥生時代古墳時代にも、庶民、特にごく下層の人間の遺体はどう処理されていたのだろうか。墓が作られている人間は、それなりの地位のある人間に見えるし。当時も、遺棄葬だったのだろうか。また、この時代には、大規模な葬礼が行われていたのに、その後平安時代には、葬祭の伝統が途切れてしまう状況も興味深い。
 第三章は、仏僧が葬式に関わるようになった経緯について解説している。浄土信仰による仏教的な死生観への転換。この浄土信仰は阿弥陀信仰に56億7千万年後に弥勒が仏になり、法華経の説法で衆生を救う弥勒下生信仰がミックスしたものであったと指摘する。また、鎌倉時代に出現し、葬送を担うようになった仏教教団、律宗禅宗や鎌倉新仏教の教団は、「厳しい戒律を守っているため穢れない」や「往生人に穢れなし」といった理屈で死穢を乗り越えたと言う。
 第4章は、石造の墓の起源として、板碑や五輪塔などがどのような背景で出現したかを明らかにする。律宗教団の僧たちによる巨大五輪塔が60基ほど現存するが、その建立の背景として56億7千万年後に弥勒菩薩がこの世に仏として下生して、三会の説法で一切衆生を救うという信仰があることを指摘する。このときに立ち会うために、永続性の高い素材である石を使い、分骨してリスク分散を図ったという。また、五輪塔は、六道講や不動講といった講を結んだ人々や一族の共同墓、納骨堂的な性格をもつものであり、個人の墓としての石造墓は江戸時代になってから普及していくと指摘する。本章で出てくる叡尊や忍性といった人名は、以前に読んだ山川均『石造物が語る中世職能集団』にも頻出したように思う。関連して読み直してみたい。
 第五章は、中世の葬式仏教の出現から、檀家制度など現在に繋がる仏教の形が近世に形成されていく様子を描いている。キリシタンを摘発するために利用された檀家制度、16-7世紀の新寺建立ラッシュなど。
 本書は、現在の葬式だけしか信徒と関わらない「葬式仏教」という現状に対する問題意識から、議論を起こしている。「暮らしに根差した仏教」への変化が必要と言う。確かに、現状ではそうなのかもしれないが、近世の「葬式仏教」も、必ずしも形骸化していたとは言えないのではないだろうか。16-17世紀と言うのは、同時に新村建設ブーム、人口増加の時代であり、新しい村が形成されると、その村の信仰の基盤として寺が新しく設置されていったのだろう。近世から比較的最近まで、寺・仏教というのは、共同体内でのさまざまな宗教サービスを遂行していたのではないかと思う。また、近世からの集落に入ると、お地蔵さんの祠が多数存在し、また、講などが盛んだったことを思うと、近世の人々は非常に信心深かったのだなと感じる。そのようなムラやマチといった共同体の中で、宗教者はさまざまな役割を果たしていたのだろう。このような信仰の形が、近代に入ってからの宗教政策や戦後のムラやマチといった共同体の解体によって、基盤を失い、信徒との接触の機会が葬式しかなくなった状況が現状なのではないだろうか。そのような社会の変動の中で、仏教はどのような形をとっていくべきなのか、そういう理解をすべきではないかと思った。


 以下、メモ:

 また、橋や道路に人や動物の死体などがあった場合はどうであろうか。そうした道路や橋など、開放された空間に死体があり、そこを官吏や官僧たちが通っても、穢れることはなかった。すなわち、家の中、部屋の中といった閉じた空間では穢れが伝染すると考えられていた点も注目される。p.44

 このあたりの感覚って、実に興味深いな。道路わきに死体があっても、キニシナイってのは、これまたいような感じだ、現代からみると。

 先述したように、そもそも古代においては、寺院や仏教者は、先述の穢れ忌避の理由から、葬式に関与するのが憚られたからである。貴族たちですら、都のはずれに死体や骨を埋めると顧みることはなかった。天皇の陵墓でさえ、九世紀にはその所在がわからなくなってしまっていた程である。p.112

 このあたりも非常に興味深い。古墳時代にはあれほど、盛大に葬儀をやっていた伝統が、平安時代には途切れてしまった。文化の断絶がそこにはある。