渡鹿神社の石造物

 26日撮影。渡鹿神社の境内は浸水したようで復旧作業中だったが、石碑などには表立った被害は見えなかった。境内の裏側はどうなっているか分からないが…


渡鹿神社「由緒書」碑

 渡鹿神社の由緒を記した石碑。1985年だから、比較的新しい石碑。再建に関わった氏子の人びとを見ると、本当にここは、渡鹿堰と大井手川の水の神様なんだな。ずいぶん遠いところからも、寄附を受けてきたようだ。

   由緒書
 御祭神 水分神         祭典日 一月十一日
     菅原道真公           十月二十五日
 往古は 早鷹神の森(現在渡鹿五丁目)として 古代人の信仰の
寄り所であり 集いの場所であった
 さて 延喜三年(九〇三年)菅原道真公が没せられたので 神の
森は早鷹天神となった ついで 天正十六年(一五八八年)に 熊
本城主加藤清正公が 白川から 田迎 出仲間方面への田畑の水路
(一、二、三の井手)をうるおす為に渡鹿堰を完成された 清正公
が大喜悦され 堰の守護神(水分神)と 早鷹天神の分身(菅原道
真公)を尊崇するようにと現在地に神社を創建された この渡鹿堰
の水路で、三千町歩の田畑から 見事な肥後米が生産された
 然し 時代の推移と共に 御社殿が破損し 宝永八年(一七一一
年) 享和二年(一八〇一年)と 他 数回にわたり 本庄 田迎
長溝 大江方面の水利関係者の寄付と奉仕により 修理された
 さて 近年になり 破損が甚だしいので 再建の運びとなった
今日に至る迄に 実に 一〇八〇年以上の歴史が刻まれている
     昭和六十年(一九八五年)一月吉日
              水分神社
              菅原神社 宮司 黒川親弘

「竣工記念」碑

 上記の「由緒書」碑と同時期に建てられたと思われる。1985年の社殿の再建に伴う記念碑。

竣工記念
 往古よりの御社殿が加藤清正公により受け
つがれ それ以来 この度の再竣工である


 昭和六十年(一九八五年)三月吉日
      宮司   黒川親弘
      神社総代 藤本壮栄
           福島貞喜
           田島武雄
      施工   田畑朝雄

「鳥居建設銅瓦改修記念碑」

 大正12年の整備の記念碑。しかし、屋根を銅で葺くってのは、金がかかりそうだ。裏面には、年紀と発起人・建設委員の名前が書かれているが、人名は省略。

大正十二年十月廿四日建之

パラオ真珠貝

 石碑とはちょっと違う感じだが、歴史の証人として。渡鹿からパラオに真珠の潜水漁に行った人がいたってことを示している。故郷に錦を飾るって感じだったのかね。この人、戦後はどうなったんだろうな。

昭和十一年六月下旬
南洋パラオ島住渡鹿出身
旧姓井島太吉氏之寄進

馬像

 どういう目的で寄進されたのかよく分からないが、馬の像。菅原神社だと、普通は牛だろうって気がするが。銘板が風化して、読めなくなっているが、家族による寄付で、彫刻は市内の業者らしい。昭和34年10月の建立。

謎の石

 普通の石なんだが、上に何かのっていたのか、この石そのものに意味があるのか…
 文字は下の方が切れているので、元の状態から土が堆積したようだが。「昭和54年9月11日」と「田島」という字は読み取れるが。