
日本の船を復元する 古代から近世まで―復元するシリーズ〈4〉 (GAKKEN GRAPHIC BOOKS DELUXE)
- 作者: 石井謙治
- 出版社/メーカー: 学習研究社
- 発売日: 2002/12
- メディア: 単行本
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本書では、解体の危機にある「海の時空館」の浪華丸が取り上げられている。私自身、浪華丸の「価値」について懐疑的だったわけだが、復元船ではなく、「最後の大型木造船」と考えると価値は高いわなと思った。船大工によって作られた大型の純帆走船って、他にないんじゃなかろうか。こういうバブリーな企画がこれから先通るとは思いにくいし、通るような経済状況になる頃には船大工が存在しないだろう。そう考えると、捨てるのは惜しいなと思う。
浪華丸の誕生
平成六年六月、「なにわの海の時空館」の主展示物とするため大阪市は弁才船の実物大の復元を企て、数ある弁才船のなかから江戸時代に天下の台所と称された大坂を象徴する船として菱垣廻船を復元することに決めた。以来、基本設計、船材の入手状況の調査、実施設計、船材の入手・製材・乾燥などの準備作業におよそ四年の歳月を費やし、平成十年四月に起工、翌年七月に竣工して、復元船は浪華丸と命名された。当初、船体の汚損と釘類の腐食を懸念して、復元船は海に浮かべない方針であったが、菱垣廻船建造監修委員の野本謙作氏の熱意と尽力によって帆走性能に関するデータをとるための海上帆走が実現し、七月下旬から二週間にわたって大阪湾内で実験が行われた。
浪華丸のような過去の船を復元する手掛かりとして同時代の実船にまさるものはない。けれども、役割を終えると船は解かれ、船材は他に転用されるのが船の習いである。出土した単材刳船や複材刳船を除けば、今に伝わる実船は安政四(一八五七)年建造の阿波藩の鯨船千山丸をおいて外にはない。しかも、千山丸のような小型和船はともかくも、菱垣廻船のような大型和船は姿を消して久しく、ためにその建造技術は途絶え、んまた今日の和船の船大工が身につけた伝統的とされる技術も、幕末以降に導入された洋式木造船技術を摂取している可能性が多分にあり、どこまでさかのぼれる伝統かは検証の必要がある。
それゆえ菱垣廻船の復元は、信頼のおける図面もしくは雛型(模型)をもとにせざるをえない。今に伝わる菱垣廻船の図面・雛型六点を検討した結果、年紀はないが、船体の様式から十九世紀初頭の文化期の作と推定される国会図書館所蔵の「千石積菱垣廻船二拾分一図」に準拠することに決まった。国会図書館本には珍しいことに側面図と船体中央の断面図の他に平面図まで描かれている。しかし、航や棚板などのはぎ方、はぎ合わせの板の枚数、部材の形状と結合法、船体の内部構造、艤装などは図面に示されていないので、雛型・図面・木割書・寸法書・建造記録などの造船資料によって可能な限り厳密に考証して仕様書を作成した。
復元船の建造は、和洋を問わず木造船建造の経験のある船大工が担当した。まず国会図書館本により一〇分の一の雛型を製作し、ついで三分の一の船体を仕様書に従ってつくり、建造法を確認した後、実船の建造に取り掛かった。安全規則と建造費の関係から船材の加工には電動鋸・電動鉋のような現代の工具を使用し、重量物の移動には工場内のホイストを用いた。江戸時代には焼くか湯をかけて船材を曲げていたが、工場内での建造であるため蒸し箱を使用した。長期間の展示を考慮して、材の変形と帆桁・索具の落下を防止するのに必要な処置が講じられている。高齢化する木造船の船大工の現状からすると、大型和船の復元は浪華丸が最後かもしれない。(安達裕之)p.86-7
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野本謙作名誉教授の遺された「菱垣廻船?浪華丸」物語。そのー2