大内建二『戦時商船隊:輸送という多大な功績』

戦時商船隊―輸送という多大な功績 (光人社NF文庫)

戦時商船隊―輸送という多大な功績 (光人社NF文庫)

 第一次世界大戦から中東戦争にいたる、戦時輸送に関して、様々なエピソードをアラカルト風に並べた本。全16章から成り、ゼー・アドラーや第三図南丸、橘丸のような特定の船の活動、両大戦の客船の損害やリバティーシップなど大きくまとめた章などが収録される。
 しかし、両大戦の客船の被害の記録を見ると、第一次世界大戦の通商破壊作戦による死者が意外と少ないのが印象的。第一次世界大戦の時には、まだ魚雷の威力が小さかったこと。潜水艦が多数の魚雷を搭載できず、一隻あたりの魚雷命中数が少なかったあたりの事情があるのだろうか。一方で、第二次世界大戦での商船撃沈による死者の数のすごさが。日本は兵員10万人の喪失って、これだけで二個軍団くらい構成できそうな損害が凄まじい。
 あとは、リバティーシップの話。もう、アメリカの脅威の工業力としか言いようがないよなあ。2500馬力のレシプロエンジンってあたりが戦時急造感を漂わせているけど。これにヴィクトリー級を建造しているわけだからなあ。リバティーシップについての概要は、これで知ることができるが、アメリカの船舶の戦時動員や第一次世界大戦からの標準船政策、アメリカ海事委員会(United States Maritime Commission)の活動などは、どこを調べれば良いんだろうな。リバティシップの本は、何冊か紹介されているが。
 あと、建造の最短記録の7日って、部材の準備とかに、どのくらい手間をかけたんだろうな。


 以下、メモ:

 アメリカは第一次世界大戦中に貨物船を中心に二五〇〇隻、八〇〇万総トンも建造したが、その結果アメリカは大戦が終了すると大量の余剰船舶を抱え込むことになった。そしてアメリカ国内のあちこちの港湾や大きな河川にはそれらの船舶が、まるで目刺しの列のように大量に舷々相接して係留される始末となった。p.160

 不良在庫もここまで来ると、すごい迫力だな。で、この余剰船舶のせいで、アメリカ国内の造船業は振るわなくなると。第二次世界大戦でイギリスに供与されたようだが、これらの船の末路はどうなったのだろうか。

 一九四七年に九州郵船が一隻のSS艇を購入したが、この艇の前身はSS12号とする説がある。しかし戦闘記録を調べるとSS12号は機動輸送第16中隊の乗務艇で、一九四五年に台湾の南端のガランピ岬で敵機動部隊の艦載機の攻撃を受け大破、擱坐し、その後放棄されている。従ってこの艇はそれ以外の艇であることになるが詳細は不明である。
 残存したSS艇で戦後商船に改造されたものの中で、その前身が明確なものは君島丸だけで他の艇についてはそれぞれがどの商船に変身したのか確証がない。
 九州郵船が購入したSS艇は身元は分からないが大改造を受け、第20図に示す大衆丸という貨客船に改造された。大衆丸は八三一総トン、一・二・三等船客定員四一八名の小型貨客船で、九州の博多〜壱岐対馬間の定期航路に一九六三年までの約二〇年近く就航していた。ところが一九六三年十一月に関西汽船九州郵船、大韓海運の三社による共同運航で阪神〜釜山間の航路が開設されると、その第一船として大衆丸が就航することになった。
 ただこの新たな航路に就航するに際し船名が大衆丸から韓水丸に改名され、関西汽船のなにわ丸(この船も元は海軍給糧艦「荒埼」)、大韓海運の新鋭貨客船ありらん号の三隻で運行が開始された。
 その後、本航路は下関・釜山間に短縮されたが一九七〇年六月に関釜フェリー社が設立され、新鋭の大型国際フェリー「関釜」が就航する段階で、老朽化が著しい韓水丸(元大衆丸)は引退し解体された。陸軍上陸艇も平和の時代に活躍し商船冥利に尽きたであろう。p.246-7

 特務艦艇が、戦後、客船として活躍する例って、けっこう多いんだな。


関連:
機動輸送中隊概史
戦時海運関係目録


 文献メモ:
海上労働協会『日本商船隊戦時遭難史』
駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版共同社
同『船舶砲兵』
遠藤昭『陸軍船舶戦争』
野間恒編『商船が語る太平洋戦争』
木俣滋郎『残存帝国艦船』