水谷千秋『謎の豪族 蘇我氏』

謎の豪族 蘇我氏 (文春新書)

謎の豪族 蘇我氏 (文春新書)

 葛城氏に続いて、後継的な性格のあった蘇我氏の話。
 前半は、蘇我氏の盛衰を。後半はさまざまな論点について。
もともと、それほど有力な豪族ではなかったのが、稲目が大臣に任命されたあたりから急速に発展したこと。蘇我氏が大王家の蔵を管理する「官僚」的な職務を通じて勢力を拡大し、大王家の姻族として力をふるったこと。一方で、豪族としては在地の把握が弱かったこと。これが、蘇我宗家のあっけない滅亡の要因であったこと。「官僚」というよりは、大王家の家政を担っていたという形容が適していると思うが。あと、急速に発展し、基盤が相対的に弱いから、葛城氏の後継者を主張するなどの「豪族化」が必要だったのかねと思った。
 蘇我氏が渡来人や葛城氏の出身であるという説があるが、基本的には橿原市の曽我が本拠地であったというのも興味深いな。奈良盆地の南縁あたりを根拠に展開しているのか。
 あとは大化の改新の背景とか。何らかの政治路線の対立というよりは、皇極天皇の後継者をめぐる抗争の側面が強かったこと。実子の中大兄皇子蘇我系の古人大兄皇子の対立。その中で中大兄皇子自身が、私的にクーデタに出たと。で、改新政権が、蘇我氏が既に手をつけていた政治路線を継承し、「簒奪」したという指摘も興味深い。
 また、先に読んだ『謎の古代豪族 葛城氏』では有力姻族の葛城氏を滅ぼしたことが大王家の安定を害し、6世紀の混乱と継体朝への変転を生んだと指摘している。蘇我氏を滅ぼしたことも、同様な自体を生んだように見える。天智天皇の系統から天武天皇の系統への移行と内乱、その後も天武系は政治が安定せず都を転々とし、政変も相次いだ状況。最終的に藤原氏が同じ位置につくまで、混乱を繰り返した歴史を考えると、パートナーの有力者ってのは大事だったのかもなと。


 以下、メモ:

 早く日野昭氏が、「ソガ部との結合の弱さ、あるいはソガ部統率の未熟さ、ないし総じて部民統御策への低い関心が蘇我氏の権力体制の一つの大きな欠陥であった」とする一方で、「蘇我氏の王権への寄与は、その経済的基盤である屯倉経営に対する貢献においてよくあらわれている」と述べているのは当を得た指摘といえるであろう。p.108-9

 在地支配の弱さ。家政担当者と考えると、こういう行動様式もわからなくはないが。

 この講義を聞いた入鹿や鎌足たちは、唐に倣った国家制度の構築を夢見たに違いない。倭国を「法式備はり定まれる珍しき国」にしたいと熱望したに違いない。この点では入鹿と鎌足に違いはなかったものと私は思う。入鹿を単なる横暴で驕慢な人物とみるのは誤りだ。彼は僧旻に「吾が堂に入る者、宗我太郎に如くはなし」と言わしめた青年である。その才知と先見性は端倪すべからざるものがあったに違いない。p.192

 蘇我入鹿中臣鎌足イデオロギー的な違いはなかったと。同じ師について学ぶような関係だったと。で、その師である僧旻にもっとも高く評価されていたのが蘇我入鹿だったという。