藤井非三四『陸軍人事:その無策が日本を亡国の淵に追いつめた』

陸軍人事―その無策が日本を亡国の淵に追いつめた (光人社NF文庫)

陸軍人事―その無策が日本を亡国の淵に追いつめた (光人社NF文庫)

 うーん、なんか結果論で議論しているところがあるように見える。前半の人事の流れなんかはおもしろいんだけど、客観性が担保されない印象批評のような。欧米諸国の人事や士官動員システムとの比較は必要だったのではないだろうか。
 結局のところ、軍部の人事の癌は「統帥の独立」だったように見える。民権運動に直面した明治の元老が、軍部への政党の影響力をシャットアウトするために作った障壁が、元老亡き後には政治のコントロールを受け付けなくしてしまったのではないだろうか。シビリアンコントロールがもう少し機能していれば、大正あたりから、延々と内輪の派閥争いといった惨状を呈することはなかったのではなかろうか。海外の事例を見ると、アメリカにしろ、イギリスにしろ、ドイツにしろ、抜擢は外部の人間の意向で行なわれているようだし。
 長州閥から一夕会への流れ。日露戦争時に大量採用した士官のポスト問題や負け組の復帰の野望が日中戦争から戦争の拡大をドライブしたこと。人事に見える「組織の意思」。積極拡大をめざす東条が陸相になった時点で対米開戦の布石は引かれていた。逆に、梅津美治朗の参謀総長就任が戦後処理に向けての意思であったというのが興味深い。あとは、健康管理の欠如。特に日中戦争開戦時に要職にあったものが病人ばかりであった状況にはちょっとあきれる。
 人事関係の部局が過小であったこと、人事のための基準の欠如、総力戦に向けた大量養成の失敗など、人事が機能していなかった陸軍の状況はつかめる。


 以下、メモ:

 平時においては、戦功というものはない。しかし、昭和六年の満州事変以降、それが数多くあったはずだ。ところがそれが、人事にストレートに反映されたという話はあまり聞かない。一介の兵士から下士官、そして少尉候補者となって任官した者は軍隊というものを知り尽くしているのだから、第一線ではなくてはならない存在になることは当たり前だ。それならば、この少候出身者を早く少佐に抜擢して侍大将の大隊長にあてるというのは当然のことだ。ところが少候出身者の大隊長が生まれたのは昭和十三年のことだった。
 それも大隊長の不足に悩んだ揚げ句のことで、渋々ながらやらせてやるという姿勢だった。結局、敗戦時まで少候出身者の大佐はいなかったが、今度は連隊長不足に悩み、少候出身の中佐をあてて見たところ、陸士出身者と比べていささかの遜色もなかったと感心しているのだから、人事のどこかが間違っていたのだ。p.134-5

 確かに日本軍は予備士官とか、下士官からの昇格といった人材活用に失敗している感があるな。このあたり、日露戦争第一次世界大戦の戦訓研究はどうなっていたんだろうな。
 あと、第一次世界大戦でのシベリアや中国に行った人は結構いたんじゃなかろうか。

 敗戦後、極東軍事裁判で日本は計画的に準備して侵略戦争を遂行したと追求されたが、それが事実無根であることは、この将校育成数の推移によって証明できる。とにかく計画されていた戦時五〇個師団、もしくは四〇個師団に見合った中堅将校を養成し、維持してこなかったのだから、大戦争をするなど考えもしていなかったとなるはずだ。敗者があれこれ主張しても仕方がないが、後世の史家はそう語るだろう。p.265

 将校育成の観点からは計画性が見えないと。まあ、計画はすれど人事は怠っていたとかいう、信じられないほど無能という可能性もあるが。