伊藤章治『サツマイモと日本人:忘れられた食の足跡』

サツマイモと日本人 (PHP新書)

サツマイモと日本人 (PHP新書)

 同じ著者の『ジャガイモの世界史』に続いて読んでみた。今度は、日本におけるサツマイモの歴史を戦中戦後をメインに。いろいろな人への取材から、サツマイモの果たしてきた役割を明らかにする。思った以上に、依存度が高かったのだな。


 戦時中、孤立した南洋での自活でサツマイモ栽培がおこなわれたところから語り起こされる。前線でも、銃後でも、流通が途絶した場所では、サツマイモの栽培が試みられた。トラック島では、害虫に食い荒らされたらしいけど。
 この時期のサツマイモの評判が悪いのは、普及した品種が沖縄に最適化されすぎていたという話も興味深い。他で作ると味が落ちるらしい。


 続いては、17世紀あたりの日本列島各地へのサツマイモ栽培の導入。これが、飢饉時の救荒作物となって、多くの人を救ったと。不作というと、旱魃と長雨の両方がありうるが、サツマイモはどちらに強みがあったのだろうか。湿気には強そうだけど、熱帯の作物だから寒さには弱そうだな。
 沖縄にサツマイモを持ち込んだ野国総管や公的政策にサツマイモを導入させた青木昆陽、神と崇められた下見吉十郎や井戸平左衛門といった人々。
 ただ、飢饉って、単純な不作ではなくて、流通と価格高騰の問題。そのなかで、サツマイモが果たした役割は、単純なものではなかったのではなかろうか。まあ、サツマイモ作るような園芸用畑地は、あまり税金の対象にならなかったのかね。


 島嶼のサツマイモとして、対馬と天草の事例が紹介される。
 平地が少ない島嶼の食糧としては、サツマイモは好適と。かなり手間をかけて作られる「セン」。
 外へ動いていく人々を支えたサツマイモ。水俣病と天草からの移住とサツマイモか。


 第7章のサツマイモvsジャガイモもおもしろい。明治初年にはかなりの普及を見ていたサツマイモに対して、20世紀に入ることから本格的に普及し始めるジャガイモ。戦後になると、どちらも生産量は下がっていくが、ジャガイモと比べても、サツマイモのシェア低下が大きい。サツマイモの「甘さ」が、料理のバリエーション拡大を阻んでいる側面があるよなあ。洋食化だけではなく。
 南のサツマイモと北のジャガイモ。しかし、品種改良でそのような色分けは揺らいでいる。北海道がジャガイモの圧倒的シェアを持つものの、長崎と鹿児島は春植えジャガイモの生産が盛んで、両者合わせて1割程度を占める。一方サツマイモは、鹿児島のシェアが大きく、三分の一程度。続いては茨城、千葉、宮崎。畑作地帯の作物といったイメージだな。一方で、北海道でも作付けが拡大していると。


 第9章の焼きイモの出稼ぎと言うのも興味深いな。新潟県の星峠地区からは、男性が総出で焼きイモ販売の出稼ぎを行っていた。リヤカーをレンタルしたり、自前で販売車を買ったり。それで農地を広げることができたのだから、たいしたものだな。しかし、農地を受け継ぐ跡継ぎが居ないと…


 第10章はサツマイモを基にした地域おこしの活動の紹介。三富新田の短冊状敷地は興味深いな。そして、その景観維持の大敵が相続税と。肥料等を供給した林地が維持できないと。このあたり、何らかの制度的手段はないのかね。根岸茂夫『大名行列を解剖する』で、甘味として江戸市中でもてはやされたと言うが、この土地も、そういう恩恵に与ったのかね。
 あとは、尼崎の絶滅した尼いもの復活とか、栗源町の焼きイモ祭りとか、ボーナスが出る集落とか、イモの日とか。
 そして、海外の救荒作物としてのサツマイモ拡大とか、地球外での食糧生産の候補としてのサツマイモとか。


 以下、メモ:

 なお、沖縄100号がおいしかったかどうかについては二説ある。「おいしかった」という者もいれば、「まずかった。イモ嫌いをつくってしまったのも沖縄100号だ」とする説もある。
 伊波が明快に解説してくれた。
「沖縄では地味や水はけなどが沖縄100号に適していた。沖縄で育った沖縄100号は間違いなくうまかった。ただし、本土や南洋ではうまいイモにはならなかった」p.53

 適地適作大事と。不適切な場所にもばら撒いた結果、サツマイモアンチを作ってしまったと。