金菱清編『呼び覚まされる霊性の震災学:3.11 生と死のはざまで』

呼び覚まされる 霊性の震災学

呼び覚まされる 霊性の震災学

 東北学院大学の金菱ゼミの学生による「震災の記録プロジェクト」の成果を集めた本。東日本大震災から数年たって、「死」に対して、人々がどのように向き合っているかを取材した論集。石巻タクシードライバーが経験した幽霊話を扱った第1章が、注目を受け、ネットでも紹介する記事がいくつも出ているが、他の論文も、興味深い。扱うテーマが多岐にわたるため、一貫した感想は書きにくい。
 学部の卒論で、ここまでガチなテーマに突撃する機会って、あんまりないんじゃなかろうか。


 しかしまあ、読みはじめて、ずいぶん時間がかかった。3月はじめあたりには、手をつけていたはず。やはり、「死」というテーマと向き合うのは、なかなかつらい。勢い、読むスピードが下がってしまった。
 ただでさえ、集中力が低下しているし。

工藤優花「死者たちが通う街:タクシードライバーの幽霊現象」

 ネットでも注目を集めていた論考。被災地における心霊現象の体験談を集めているうちに、石巻タクシードライバーの幽霊体験が非常に強固であるところから、その理由を追っている。他の怪談が、アレは幽霊だったのではといったあやふやさを持っているのに対し、タクシードライバーの体験談は、霊と直接対話し、運行記録も残るという、「強度」を持つ。これは、個室的な公共交通機関というタクシーの性質、地元に密着したタクシードライバーの職業性、石巻というコミュニティの強固さなどの要因が紹介される。「石巻のタクシー」という場の持つ力があるわけか。体験者も、恐怖というより、霊に対する畏敬の念を持っていると。

菅原優「生ける死者の記憶を抱く:追悼/教訓を侵犯する慰霊碑」

 名取市閖上閖上中学校の犠牲になった生徒を追討する慰霊碑は、「教訓型」や「追悼型」といった他の地域の慰霊碑とは、性格を異にする。碑文も、「平成二十三年三月十一日 午後二時四十六分 東日本大震災津波により犠牲となった閖上中学校の生徒の名をここに記す」と犠牲になった14名の生徒の名前という簡素なもの。
 これは、閖上という地域が、非常に甚大な被害を被った一方で復興が遅い場所であったこと。遺族が個人的な記録も失っている状況。さらに、土地のかさ上げで元の土地の姿も変わっていく。その状況の中で、遺族が故人の記憶のよすがとするパーソナルであると同時に、第三者にも開かれたパブリック性も兼ね備えた、「記憶型」の慰霊碑という類型を生んだ、と。
 参考文献を見ると、阪神大震災のモニュメントを巡って、研究が行われているのだな。


 文献メモ:
林勲男「災害を伝える:記憶と記録をこえて」『記憶をつなぐ:津波災害と文化遺産』千里文化財団、2012、pp.173-181
今井信雄「死と近代と記念行為:阪神・淡路大震災の『モニュメント』にみるリアリティ」『社会学評論』51-4、2001、pp.412-429
今井信雄「阪神大震災の「記憶」に関する社会学的考察:被災地に作られたモニュメントを事例として」『ソシオロジ』47-2、2002、pp.89-104
井上利丸「震災モニュメントの取材を通じて:変容と増殖の物語」『宗教と社会』13、2007、pp283-286
アンリ・ピエール・ジュディ「祭る文化」荻野昌弘編『文化遺産社会学ルーヴル美術館から原爆ドームまで』新曜社、2002、
アンリ・ピエール・ジュディ「地域の集合的記憶」荻野昌弘編『文化遺産社会学ルーヴル美術館から原爆ドームまで』新曜社、2002、
三木英『復興と宗教:震災後の人と社会を癒すもの』東方出版、2001
中安美生「震災モニュメントにみるメモリアル形成の動機と行為」『日本建築学会近畿支部研究報告集:計画系』39、1999
小川伸彦「モノと記憶の保存」荻野昌弘編『文化遺産社会学ルーヴル美術館から原爆ドームまで』新曜社、2002
荻野昌弘・蘭信三『3・11以前の社会学阪神・淡路大震災から東日本大震災へ』生活書院、2014
荻野昌弘『資本主義と他者』関西学院大学出版会、1998
佐藤弘夫「祟り・治罰・天災:日本列島における災禍と宗教」『宗教研究』86-2、2012、pp.323-346
新谷尚紀『お葬式:死と慰霊の日本史』吉川弘文館、2009
首藤伸夫「記憶の持続性:災害文化の継承に関連して」『津波工学研究報告』25、2008、pp.175-184
若松英輔「協同する不可視な『隣人』:大震災と『生ける死者』」『みすず』53-8、2011、pp.6-18

水上奨之「震災遺構の『当事者性』を越えて:20年間の県有化の意義」

 被災遺構として、南三陸町防災対策庁舎を保存するかどうかの議論における、20年県有化の意義を論じている。20年間の冷却期間は、被災者の「当事者性」に基づく感情的な対立を乗り越えるのに、有用であると。
 原爆ドームも、そのような先延ばしの結果、現在のようなシンボルとして生き延びることが可能になった。
 先延ばしも、人間の知恵である、と。


 文献メモ:
頴原澄子「原爆ドームの保存の過程に関する考察 一九四五年―一九五二年:原爆ドームの建つ敷地及び原爆ドーム本体の扱われ方について」『日本建築学会計画系論文集』596、2005、pp.229-234
濱田武士「戦争遺産の保存:原爆ドームを事例として」『関西学院大学社会学部紀要』116、2013、pp.101-113
D.ハイデン『場所の力:パブリック・ヒストリーとしての都市景観』学芸出版社、2002
島川崇「被災惨禍の観光資源としての保存過程における住民意思の変化と首長・議会の役割:広島・原爆ドームを事例に」『日本国際観光学会論文集』19、2012、pp.27-31
島川崇「東日本大震災の被災地における惨禍の保存と観光に関する地域住民の意識」『日本国際観光学会論文集』21、2014、pp.47-52

斎藤源「埋め墓/詣り墓を架橋する:『両墓制』が導く墓守たちの追慕」

 宮城県山本町坂本地区中浜は、非常に墓を大事にする地区である。しかし、東日本大震災で墓地が壊滅。移転を余儀なくされた。一方で、元の墓地には「千年塔」が建てられ、そこが祈りの場になっている。新たな墓はできたけど、石塔や遺骨が流失した元の場所が本来の墓という認識を架橋する概念として、「両墓性」という概念を利用すべき、と。
 どうも、熊本あたりだと、「両墓性」という概念がいまいち分からないところがある。
  お墓と先祖祭祀を軸として強固な宗教意識が印象的。


 文献メモ:
小谷竜介「契約講と春祈祷:震災前のくらしと後」日高真吾編『記憶をつなぐ:津波災害と文化遺産』千里文化財団、2012
前田俊一郎「両墓性の誕生とその後:明治期に成立した両墓性を考える」『常民文化』、1996、pp.1-32
槙村久子「家族形態及びライフスタイルの変化と墓地のあり方」『造園雑誌』53-5、1990、pp.281-286
本林靖久「現代の家族変動と墓の変容:女子学生への意識調査を手がかりとして」『言語文化研究:中部大学女子短期大学紀要』6、1995、pp.147-169
長沢利明「葬送と肉体をめぐる諸問題」『国立歴史民俗博物館研究報告』169、2011、pp.107-136
中筋直哉「〈社会の記憶〉としての墓・霊園:『死者たち』はどう扱われてきたか」『歴史的環境の社会学新曜社、2001
大野一郎「今、両墓性とは何か:その存続・消滅をフィールドで考える」『常民文化』8、1985、pp.51-63

金菱清「共感の反作用:被災者の社会的孤立と平等の死」

 災害による肉親の喪失の痛みは、比較できるものではないにも関わらず、「物語性」がある人々に視線が集中し、顧みられず社会的に孤立する人々が出ている、と。自身がどこに住んでいるか、犠牲者の属性如何で、支援の質量に差が出てしまうコールドスポット。グリーフケアの支援も、親を亡くした子供への支援にリソースを割き、マスコミの視線も、より劇的な遺族に向いてしまう。
 自身の経験を語ることが、精神的な再建に資したこと。「共感」がむしろ、被害者を追い詰めてしまう側面もある、と。
 ここでは、近親者の死をどう受け止めるかという問題について述べられているが、この種の線引きはあちこちにあるよなあ。自宅避難者への情報提供や食糧支援なんかも、依然として細かったりするし、みなし仮設での被災者の孤立とか、コールドスポットはあちこちにある。我が家は、太陽光発電で電気が使え、日中は冷蔵庫やテレビか利用可能だったから、ずいぶん違ったけど。

小田島武道「672ご遺体の掘り起こし:葬儀業者の感情管理と関係性」

 仮埋葬後、遺体の掘り起こしと改葬を委託された葬儀会社の、極限状況における感情管理の話。平時には、平静を保ちつつ、同情的な態度が必要とされるが、まったく違う感情管理が必要であったと。遺族をシャットアウトして、流れ作業的かつガス抜きの必要があったわけか。
 しかし、東日本大震災で土葬を忌避する感情は興味深い。割と最近まで、土葬は一般的だったわけだし。正直、恒久的なお墓ができるなら、別に土葬だから、なんだとは感じないのだけど。ただ、この時の、土葬に対する忌避感は、仮埋葬に対する忌避感も重なっているのかもしれない。
 あと、阪神大震災に続いて、遺体処理システムがパンクした事例になるわけだが、20年に一度くらいの頻度で、自治体レベルでは対処できない遺体発生があると考えると、そういう時にどうするかを、具体的に考えておく必要があると思う。船に火葬設備を乗っけるとか。結局、阪神大震災の教訓は活かされていないのだな。途中であった、中越地震中越沖地震、その後起きた熊本地震などでは、数千人規模の大量死が発生していないだけに、対策がおろそかになりがちのようだが。60年代以前の大規模な災害では、こういう遺体の埋葬は、どのように行われたのだろうか。伊勢湾台風のような、大量死を招く災害は、いくつもあったはずだが。


 文献メモ:
3・11東日本大震災清月記活動の記録編集委員会編『3・11東日本大震災:清月記活動の記録:鎮魂と追悼の誠を捧げて』清月記、2012
島根克巳「現代日本の葬送儀礼(1):死の受容のための文化的装置として」『社会学ジャーナル』16、1991、pp.131-144

小林周平「津波のデッドラインに飛び込む:消防団の合理的選択」

 住民のボランティア組織であるはずの消防団が、率先して危険に飛び込み、被災者対策の最前線に立った、活動の論理を明らかにしようとしている。ただ、こういうの、それこそ、村共同体の歴史的経緯みたいなのも考える必要があるのではなかろうか。伝統的に培ってきた心性みたいなの。
 地域が壊滅して、むしろ消防団で救援活動に打ち込むことが救いになっていた状況。あるいは、パートタイマーであるからこそ、水門閉鎖の担当を決めない。田老地区の宮古市28分団の15分ルールが消防団員の犠牲を防いだ話。義勇精神。暗黙知の継承など。
 遺体の身元確認では、精神的にダメージを受けて、やめた団員も出た、と。


 文献メモ:
後藤一蔵『消防団:生い立ちと壁、そして未来』近代消防社、2014
中村博一「自治と義勇のはざまで:ある消防団民族誌(1)」『生活科学研究』35、2013、pp.47-59
鳥越皓之『地域自治会の研究』ミネルヴァ書房、1994
鳥越皓之『家と村の社会学世界思想社、1996

伊藤翔太郎「原発避難区域で殺傷し続ける:猟友会のマイナー・サブシステンス」

 原発事故によって避難地域に指定された、福島県浪江町は、狩猟文化が深く根付いた地域だった。その地域での、狩猟動物供養のあり方の変容を描く。以前は、食べることが供養であった。それが、事故後は、供養の気持ちがなくなり、「浪江のために」という形で、殺生が内心で合理化される。それって、対等な駆け引きの相手から、「敵」に変わってことだよなあ。そして、かつての、動物たちとの「関係」「文化」を原発事故が破壊したと言える。
 あと、増加する動物を駆除する「有害鳥獣捕獲隊」が、参加者に大きな負担をかけながら行われていることに呆れる。人間が避難した土地を、人間の土地として維持する、公的な仕事なのに、行政がまともに協力していないという。銃の保管場所の協力や移動費は、行政ないし東京電力が負担すべき筋合いの費用だと思うが。


 文献メモ
エルメル・フェルトカンプ「英雄となった犬たち:軍用犬慰霊と動物供養の変容」菅豊編『人と動物の日本史3:動物と現代社会』吉川弘文館、2000
藤村美穂「ムラの環境史と獣害対策:九州の山村におけるイノシシとの駆け引き」牧野厚史編『鳥獣被害:〈むらの文化からのアプローチ〉』農山漁村文化協会、2010