朝倉喬司『ヤクザ・風俗・都市:日本近代の暗流』

ヤクザ・風俗・都市―日本近代の暗流

ヤクザ・風俗・都市―日本近代の暗流

 芸能や風俗、噂、犯罪など、社会の「裏側」として扱われる事象について著者が雑誌に寄稿した記事を集めた雑文集とでもいうべきもの。90年代に書かれた記事が多いため、ああそう言えばそんな時代だったなと懐かしく感じた。
 収録されている文章の中では、「都市の中の異界・ラブホテル街の民俗学」や「『学校の怪談』はなぜ血の色が好きなのか?」「日系人プロレスラーに見る〈黄色い禍〉」が面白かった。「都市の中の異界・ラブホテル街の民俗学」では遊興空間と病院や墓地の親和性やラブホテルに関わる人々、そして時代の変動が描き出される。「『学校の怪談』はなぜ血の色が好きなのか?」は「赤い紙、青い紙」の怪談を226事件まで遡ったり、怪談のメディア主導化が指摘される。中国人と日本人のイメージがシーソーのように揺れ動くさまや、「黄禍論」がヨーロッパの再編成を巡る政治的対立と「ユーラシア大陸を大挙こちらへやってくる黄色の災い」の原イメージの結びつきを指摘する最後の「日系人プロレスラーに見る〈黄色い禍〉」も興味深い。東アジアが世界の秩序に組み込まれた現在は、「黄禍」の対象が中東に移ったと考えることも出来ると思った。
 本書の後のほうは、犯罪関係の記事がかたまっているが、ここの部分はあまり感心しない。「自分というものの不たしかさ。存在感の希薄さ」が「70年代末ごろから」犯罪の原因になっていると主張しているが、実際のところどうだろうか。正直、メディアの言説を繰り返しているだけのように見えるのだが。「酒鬼薔薇聖斗」の影響力が強く模倣犯を生んだというのは確かだろうが、もうその影響も終わったように感じるし。
 また、1952年の「荒川バラバラ殺人事件」に関連して、

F子の事件に対する同時代の評言をいくつか拾ってみよう。同じ紙面で犯罪心理学者の金子準二は次のように述べている。
「犯罪の型からいえば自分に自身を持ちすぎた自己過評型だといえる。おそらくF子(本文実名)は上京後、華やかな結婚生活を予想したものだろう。それが失敗した。夫を選びそこなった責任を自分が取らないで、夫に帰した。これは自由結婚の誤った適例だと思う」
p.198

なんというか、犯罪学者のだめっぷりを示す適例だと思う。
間庭充幸の言動(→http://d.hatena.ne.jp/taron/20061023#p3)でもそうだが、この手のダメ犯罪学者は、なにか新しいものに責任を押し付けるような言説を昔から繰り返している。