農耕が障害者を生んだ

http://d.hatena.ne.jp/tsumiyama/20100123/p1
前半はともかく、後半はどうだろう。
 アスペルガーなどの障害は、むしろ優れて現代的な問題だと思う。前近代、あるいは近代に至っても、人間の画一性はそれほど要求されてこなかったのではないか。だからこそ、これらの障害は、障害として認知されてこなかった。人にもよるけど、例えばアスペルガーは黙々と作業を続けることができる人が多いので、逆に工業社会ではそれなりの居場所があったのではないだろうか。例えば、活字を拾うとか、こまごまとして、かつ根気の要る仕事はいくらでもあった。むしろ、ポスト工業化社会、情報化社会になって、コミュニケーションが重要になったことが、アスペルガーを障害として浮き上がらせる結果となったのではないだろうか。身体的規律化というキーワードがより重要に思う。
 ポスト工業時代に入る以前には、それなりに隙間があって生き残ることができたのではないか。例えば、社会的に排除されがちな個性/障害を持った人間でも、宗教者・芸能者として生き残るなどといった道がありえた。様々な社会的レイヤーが存在し得た。少し前の時代でも、むしろ不器用だが真面目な人という評価をされえたのではないだろうか。それが、今の時代、コミュ/非コミュと言われるようなコミュニケーション能力を核にした人間評価が行なわれるようになり、積極的に排除されるようになった。だからこそ、近年になって、発達障害が浮き上がり、問題になったのではないかなと思う。
 ここまで書いて、あまり元エントリと言っていることがあまり変らないような気がしてきたが、私の場合は、より「現代」に力点を置くという点でアクセントが違うと言ったところかな。「社会が障害をつくる」という指摘については完全に同意する。


 ちなみに、狩猟採集社会でも社会的対立は存在する。縄文時代については、紛争の抑止のために広域的な祭祀・政治システムを発展させていた(『骨が語る古代の家族』ISBN:4642056521)なんて指摘もある。北米西海岸のインディアンや縄文人あたりは、狩猟採集社会と言いながら、かなり定着性の強い生活を営んでいたし、社会は結構大きなユニットで構成されていた可能性がある。


関連:同意は求めない
発達障害の人間は、10㌫程度はいるらしいから、それほど死にやすい形質ではなかったのではないか。大型獣の狩猟ならむしろADHDの形質は先頭に立って突撃したりで逆に集団内の良い位置を確保できる可能性もある(事故死の危険もふえるだろうが)。アスペなら採集の方で活動できる可能性がある。精神や社会的な「障害」は、時代的な文脈による。前近代なら、「障害」が「神に選ばれた証」と解釈される可能性もある。発達障害が現在の文脈に拠っていること以外は、云々することは無意味ではないか。