山本太郎『感染症と文明:共生への道』

感染症と文明――共生への道 (岩波新書)

感染症と文明――共生への道 (岩波新書)

 感染症と人類の関係を、たがいの適応の歴史として描いている。人間の社会が変われば、それにともなって感染症の性質も変化していく。そのような歴史の流れを平易にまとめた本。
 本書における病原体との「共生」に関しては、以下を読めばよく分かるが、それはそれで生易しいものではない。が、まあ、こういう方向性しかないんだろうな。根絶が現実的でない以上。

 このように急性感染症がいまだ「小児の疾病」となっていない社会では、何十年かの間隔を置いて突発的に流行する急性感染症が、小児だけではなく成人を含めた社会全体に破壊的な影響を与えてきた。そうした影響から社会は何十年かかけて再生する。しかし、それが新たな悲劇の幕開けとなる。人類社会は、そうした「大きな悲劇」を繰り返してきた。その大きな悲劇に終止符を打ったのが、急性感染症の「小児疾病化」であった。
 しかし、それは同時に毎年の「小さな悲劇」を生み出した。
 社会を破綻させる大きな悲劇を避けながら、小さな悲劇を最小限にする。そのためにできることは何か。私たちは、それを歴史に学ぶ必要がある。
 単に病原体を根絶することで、それを達成することはできない。病原体の根絶は、マグマを溜め込んだ地殻が次に起こる爆発の瞬間を待つように、将来起こるであろう大きな悲劇の序章を準備するにすぎない。根絶は根本的な解決策とはなりえない。病原体との共生が必要だ。たとえそれが、理想的な適応を意味するのものではなく、私たち人類にとって決して心地よいものではないとしても――。
 そんな「共生」のかたちを求めて、さぁ、感染症と人類の関係を辿る旅に出てみよう。p.14-5

 適応に完全なものはありえないし、環境が変化すれば以前の環境への適応は、逆に環境への不適応をもたらす。その振幅は適応すればするほど大きくなる。過ぎた適応の例を、私たちは、マラリアに対する進化的適応である鎌状赤血球貧血症に見た。過ぎた適応による副作用は、社会文化的適応にも見られる。狩猟がうまく行きすぎると、生態系のバランスは崩れる。牧畜がうまく行きすぎても牧草地は荒廃する。
 ある種の適応が、いかに短い繁栄とその後の長い困難をもたらすか。
 感染症と人類の関係についても、同じことが言えるのではないかと思う。
 病原体の根絶は、もしかすると、行きすぎた「適応」といえなくはないだろうか。感染症の根絶は、過去に、感染症に抵抗性を与えた遺伝子を、淘汰に対し中立化する。長期的に見れば、人類に与える影響は無視できないものになる可能性がある。
 歴史家であるウィリアム・マクニールは、「大惨事の保全」ということを述べている。人類の皮肉な努力としてマクニールは、アメリカ陸軍工兵団が挑んだミシシッピ川制圧の歴史を挙げる。ミシシッピ川は春になると氾濫し、流域は洪水に襲われた。1930年代に入り、アメリカ陸軍工兵団は堤防を築き始め、ミシシッピ川の封じ込めに乗り出した。おかげで毎年の洪水は止んだ。しかし川底は年々、沈泥が蓄積し、堤防もそれにつれて高くなっていった。堤防の嵩上げは続いている。しかし、この川が地上100メートルを流れるようなことにはならない。いずれ破綻をきたす。そのとき、堤防建設以前に彼の地を襲っていた例年の洪水など及びもつかないような、途方もない被害が起こる可能性があるというのである。
 中国でも、黄河流域で同じことが紀元前800年頃に行われていた。黄河が堤防を破壊して海に注ぐ近道を模索するたびに、広大な領域が洪水に襲われた。
 同様に、感染症のない社会を作ろうとする努力は、努力すればするほど、破滅的な悲劇の幕開けを準備することになるのかもしれない。大惨事を保全しないためには、「共生」の考え方が必要になる。重要なことは、いつの時点においても、達成された適応は、決して「心地よいとはいえない」妥協の産物で、どんな適応も完全で最終的なものでありえないということを理解することだろう。心地よい適応は、次の悲劇の始まりに過ぎないのだから。p.194

 つまり、人類が風邪から解放されることはないと。
 そう言えばアシモフの『鋼鉄都市』シリーズでは、地球外に移住した人間は感染症を根絶できている設定になっていて、違和感をもった記憶がある。人間、体内に細菌やウイルスを飼っているんだから、環境から余計な細菌やウイルスを排除しても、そのニッチに新たな細菌やウイルスが進出するだけだよなあ。


 全体の構成は時代順。人間が生きる「環境」の変化とそれによって感染症がどのように変化したか。
 第一章は、移動しながらの狩猟採集生活から定住農耕へ移行する時代。狩猟採集民は人口規模が小さく、定期的に移動を繰り返したことから、相対的に感染症が定着する可能性が少なかったと指摘する。しかし、定住・農耕の開始による食料の蓄積・家畜化によって、消化器の寄生虫症・ネズミなどが媒介する感染症・人畜共通感染症などに悩まされるようになる。
 第二章は文明の勃興と交流がどのように影響したか。文明の勃興によって人口が増加し、恒常的に感染症が流行するようになる。これが一方では、周辺の諸人間集団に対する生物学的な防壁として機能したという指摘が興味深い。また、後半では諸文明間の交易や人の移動による「疾病交換」が描かれる。古代末や中世後期に起こった「ペスト」の全世界的流行。人間の行き来が活発になると、巨大な感染症の流行が世界を嘗めつくすという。ただ、6世紀の「ペスト」と14世紀の「ペスト」って、おんなじものなのだろうか。そこのところは疑問が。あと、14世紀のペスト流行以降、ヨーロッパでは疾病構造が変化し、ハンセン病の現象と結核の増加が見られたというのが興味深い。
 第三章はユーラシア大陸アメリカ大陸の人の接触による影響。まあ、このあたりは有名な話だけに短めに収められている。感染症の流行が社会の崩壊を生んだという指摘。ジャレッド・ダイヤモンドの説を解説している。あとは、奴隷貿易によるマラリアと黄熱病のアメリカ大陸への導入。
 第四章は近代医療の話。近代医療の発展に、「植民地医学」が果たした役割。20世紀初頭のノーベル賞受賞者に植民地医学関係者が多かったという。また、それが国際的なパワーポリティクスの道具として利用される状況。後半は、抗生物質やワクチンによる感染症の制圧の話。
 第五章は「開発原病」について。経済的な開発行為による環境の改変が新たな病気をうむ。治水によって洪水がなくなることによって住血吸虫症やオンコセルカ病が流行する状況や、近代の結核の流行、農地開発に伴うマラリアの拡散など。
 第六章は消えて行ったり、突然出現する感染症の話。エマージェンス・ウイルスとしてエボラ出血熱SARSなど。消えていった疾病としては粟粒病や新生児致死性肺炎、成人T細胞白血病ウイルスなどが挙げられている。


 以下、メモ:

 農耕は、狩猟採集と比較して、特にその初期において決して期待収益性の高い技術ではなかった。さらに、農耕は狩猟採集より長時間の労働を必要とする。農耕は、狩猟採集の傍らで細々と開始されたに違いない。農耕が開始された後でさえ、人々は狩猟や採集を続けた。その頃の人類が農耕の潜在的可能性を完全に理解していたとは考えにくい。しかし結果として見れば、その農耕が以降の人類史を大きく変えていくことになったのである。p30-1

 そもそも、初期の農耕ってのは、野生のイネ科植物の採集活動と大して変わらなかったんじゃないかなと思っている。人間が撹乱した環境に適応した植物を、人類が大々的に利用したのが農耕なんじゃないかね。鍬や鋤で掘り返したりってのは、結構後のことなんじゃなかろうか。

 進化医学と呼ばれる分野がある。病気は、自然選択による進化に本質的な原因がある、例えば、発熱という生理現象は、病原体を排除するための進化的適応反応であると考える。したがって、解熱という医療行為は時として病気からの回復を遅らせることになると考える。あるいは、マラリアは一般に重症化する方向へ進化してきたと考える。マラリア患者は疲労し動けなくなると、蚊に刺されやすくなる。患者が蚊に刺されれば刺されるほどマラリア原虫の繁殖機会は増大すると考えるのである。この考え方に従えば、蚊帳の使用は、患者が重症であったとしても、蚊の吸血機会の増大に貢献しない。つまり、患者の重症化がマラリア原虫の繁殖に必ずしも寄与しなくなることから、症状軽症化への「淘汰圧」として働く可能性があるということになる。p.122

 メモ。

 長く、疾病対策は開発にともなう、支払うべき対価と考えられていた。それが、こうした事例により、疾病対策自身が費用対効果の高い開発計画だということが明らかになってきた。そのことを象徴的に示したのが、1993年版の『世界開発報告』(世界銀行)であった。この年の報告は「健康への投資」を主題に掲げ、健康への投資がいかに開発に貢献するかを評価し、健康への投資そのものが開発の主題となりうることを示した。まさに発想の転換であった。
 一方、開発が環境改変を目的とする限り、開発がどのようなものであれ、疫学的均衡はある種の撹乱を受ける。その結果、社会の疾病構造は良くも悪くも変化する。このことは、疾病対策や感染症対策という名の開発計画にも当てはまる。疾病対策の成功が、「隠された健康損失」をともなうといういこともある。殺虫剤の屋内残留噴霧が、森林型マラリアの流行をもたらした例もある。
 一方で、長期にわたって信仰する健康損失は、問題が顕在化するまでわからないことも多い。例えば天然痘根絶計画についても、この計画の成功が病原体と宿主を含む生態系にどのような影響を与え、長期的に人類の健康にどのような影響をもたらすことになるのか、現時点では誰にもわからない。p.152-3

 まあ、環境の撹乱といえば、大抵の行為はそうなるような気がするが。