詫摩佳代『人類と病:国際政治から見る感染症と健康格差』

 うーむ、読むのにめちゃくちゃ時間がかかってしまった。『ビザンツ帝国』を読み終わったときには手を着けていたのだが、途中で次々と読む順番を抜かされて。さらに、読み終わった後も、読書ノート付けが延び延び。最低でも、一月がかりか。
 WHOを中心とする、国際的な公衆衛生組織が、どのような国際政治のもとで活動してきたかを描く。さまざまなプレイヤーの政治的思惑、国際的な影響力確保や国内政治に影響されつつ、それを逆手にとって自らの影響力を着々と伸ばしていった公衆衛生の世界を描く。
 序章の20世紀に入る前から、20世紀に入っての国際的公衆衛生組織の形成、天然痘やポリオの根絶作戦とマラリアの失敗、1980年代以降の新興感染症に対する戦い、生活習慣病に対する対応、医薬品へのアクセス格差をどう解消するかの挑戦といったテーマで叙述される。
 というか、WHOが組織される以前の公衆衛生組織の歴史を見ると、イギリスはやっぱりクソ外道であるとの感を強くするw
 あとは、WHOが国際政治のアリーナで、自身が強い影響力を持つプレイヤーではないこともわかる。今のWHOは、アメリカと中国の対立を含め、国際政治の分断が強まって、その中で苦慮している状況か。新型コロナは、最悪のタイミングで現れたわけだ。人間の生態に適応しまくった性質とともに、時代も適合していたわけね。


 序章は、19世紀までの国際的な公衆衛生。そもそも、種痘出現以前には、人間には隔離と交通遮断、給水の改善程度しか対応策がなかった。インドからの感染症の拡散に対して、フランスなどは途中の検疫を導入しようと図ったが、植民地からの交易仲介が経済的に重要であったイギリスは強く反発。なかなか、国際的な条約の締結に至らなかった。
 また、ペストの流行に対するイギリスの強硬な隔離政策は、インドの民衆とイギリス帝国主義の対立関係を作り出したり、クリミア戦争赤十字の元になったり。


 第1章は第二次世界大戦後のWHOの形成までの動き。第一次世界大戦の巨大な軍人の移動は、さまざまな感染症の移動を引き起こした。スペイン風邪ことインフルエンザの猛威が有名だが、バルカン半島に定着していたマラリアが、東部戦線の軍事活動で拡散。あるいは、衛生条件の悪い塹壕での感染症の拡散。
 戦後、荒廃したヨーロッパで、これらの感染症の拡散の抑止は、復興の重要課題だった。ポーランドチフス対策の協力要請やソ連での感染症対策などから、国際連盟のもとに、常設の感染症対策機関、国際連盟保健機関が組織された。これは、後々、国連を脱退した枢軸側の諸国を引き戻す梃子になると期待され、日本などの脱退国も保健関係での協力関係はギリギリまで維持した。しかし、1940年頃になると、国際連盟保健機関は英米側に協力するようになる。畢竟、枢軸側は国連から脱退した側だしねえ。
 国際連盟保健機関のもとで、国際的な感染症情報の共有や医薬品の標準化などが行われた。みんなでビタミン物質の発見を競い合っていた頃は、どれがどれか混乱していたのか。あとは、この時代から、マラリアが重要な課題だったのだなとか。


 第2章は、戦後の感染症対策。金字塔であるところの天然痘撲滅、そして、それに近い状況であるポリオ撲滅。一方で、抗マラリア薬とDDTを武器にしたマラリア対策は大失敗。これらの大規模な活動の背後の、国際政治的な思惑が興味深いな。ソ連が、国内の天然痘に悩んでいたのと同時に、天然痘対策を通じて国際的な名誉を獲得しようとした動機。一方、アメリカはマラリア対策にリソースを突っ込む。天然痘やポリオが、中間宿主を含まない人人感染の病気だったのに対し、生態系の基礎的生物である蚊を媒介とするマラリアでは、難易度が違っていたわけか。あとは、病原体のしぶとさも。
 天然痘が、外見で患者を容易に見分けられる、それに対して、ポリオは患者の発見がそれほど簡単ではないというのが、現在の実績の差になっているのか。それでも、アフリカで野生株を絶滅させて、今やパキスタンアフガニスタンだけになっているというのは、立派な実績だなあ。
 一方、アメリカがのめり込んだマラリア対策は、殺虫剤で媒介の蚊を殺し、クロロキンでマラリア原虫を殺す対策だったが、両者とも耐性を獲得してしまったこと。さらに、DDTの毒性や生態系への悪影響から、失敗に終わってしまう。現在では、貧困撲滅の観点から、さまざまな出資者によるファンドによる対策、さらに殺虫剤処理した蚊帳や新規の薬剤治療、ワクチンの開発といった手段を通じて、対策が進められている。
 キニーネは大量生産が困難、かつ、副作用が大きいのか。それでも、キナの木の産地を押さえた大戦時の日本は有利だったのかねえ。戦記でも、キニーネ、良く出てくるし。


 そして、1980年代以降は、新興感染症の脅威にもさらされる。エイズSARS、エボラ、新型コロナといった新たな脅威の前にどのような動きをしたか。
 しかし、エイズの致死率が凄いなあ。7800万人が感染して3500万人が死亡。今では多剤併用療法で死ぬ確率は減ったとはいえ、高価な薬剤はアフリカでは厳しいんだよね。新型コロナもそうだが、無症状期間に感染させる感染症は怖い。性感染症は、宗教とか道徳の問題が絡んできて、対処は難しいんだよなあ。それでも、HIVの対応が着実に進んできたのは、それだけヤバい病気と言うことだよなあ。国際的な強力の進展、特に軍隊に入り込んだときの危険性から、安全保障上の問題として対応されている、と。
 SARSでは、新興感染症に対する情報共有が問題になった。また、渡航禁止勧告が、大きな経済的損失をもたらしたことから、配慮事項になった。ここいらは、SARS2.0たる新型コロナで、改めて問題になったことだなあ。情報の遅れ、そして、むしろ封鎖が遅れてしまったというか、もっと激しい形で封鎖が行われて、経済的惨事に。新型コロナでは、米中の対立が、国際的な協力体制構築に負の影響を与えているとも。
 あとは、さまざまなアクターが協力したエボラ対策。財源問題が、迅速な対処を阻害して、緊急対応基金が設立とか。エボラと言えば、コンゴ東部の先日の流行に関しては、どういう見解になるんだろう。


 第4章は、生活習慣病に関して。ガン、心疾患、脳血管疾患など、長期的な生活の結果、内臓などに影響が出てくる病気が、改めて問題になる。むしろ、途上国の生産人口への悪影響が大きい。一方で、感染症以上に、個々の人々の生活に介入する度合いが大きいので、反発が大きい。嗜好品規制というのは、やはり、生活の楽しみだからなあ。ソフトドリンクへの課税をめぐるあれこれ、フードガイドをめぐる畜産関係ロビイストの介入、アルコールの過剰摂取などで、攻防が。
 一方で、タバコに関しては、国際的な規制のコンセンサスが成立している、と。やはり、他人に悪影響を与えるというのが、タバコの弱みだよなあ。あとは、タバコロビーと食品関係ロビーで、どの程度、力に差があったのかというのも気になる。激しい攻防を経つつ、規制が進みつつある。しかし、規制をしていない国やゆるい国、新型のタバコの出現など、いろいろと課題はある、と。
 やはり、「自由」への介入という側面が、非感染症疾患予防は大きくなるからなあ。生活の規範化。愚行権を否定してしまうのは問題だろうし。とはいえ、日本は砂糖の消費が少なくなっている珍しい国だったりするんだよな。


 ラストは、医療・薬品へのアクセス格差の問題。先進国で開発される薬剤が高価で、発展途上国で医薬品が入手できない。これに関しては、新薬開発の巨額経費の問題もあり、ギリギリの妥協点が模索されている。必要な薬に関しては、国際的な値下げ圧力があったり、インドなどでは既存成分の特許を認めないという制度、あるいは、NGOとのライセンス契約で安価なジェネリック医薬品が供給されるなどの工夫が行われている。
 また、先進国で、感染症が減って、感染症研究や薬剤開発への投資が行われなくなり、各種の熱帯病への対策が進まず、貧困を悪化させている「顧みられない熱帯病」問題も大きい。先進国も関係があるHIVマラリア結核に投資が集中してしまう。これに対し、官民パートナーシップなどの枠組みを通じての対応が模索されている。

 このほか、航空券連帯税を利用してエイズマラリア結核の治療へのアクセスを拡大しようという画期的なパートナーシップも登場した。二〇〇六年に設立されたユニットエイド(UNITAID、第2章でも言及)はその資金の七割を航空券への課税から調達している。参加国を出発するすべてのフライトに適用され、たとえばフランスでは同国を出発するすべてのフライトに対し、エコノミークラスの航空券に一ユーロ、ビジネスクラスの航空券に四〇ユーロが課される。この方法で二〇〇六年以来二〇億ドルを超える資金調達に成功し、途上国におけるエイズマラリア結核対策に充てられてきた。p.123

 つまり、今度の新型コロナで人の移動が止まるということは、国際的公衆衛生への資金拠出も止まるということなのだな。この資金の停止が、どのような影響を及ぼしているのだろうか…

 このほか、WHOは国家以外の様々な主体やネットワークから得られた情報に関して、当該国に照会し、検証を求めることもできるようになった。インターネットの普及により、国家に限らない多様な主体から迅速に正確な情報を得られるようになった現状を反映したものである。決定された規則はさらに、感染拡大防止策は、社会・経済に与える影響を最小限に留めるよう配慮すべきことも加えられた。カナダや中国に一部地域への渡航禁止勧告が大きな経済的損失をもたらしたことへの反省であった。以降、WHOは大規模な感染症流行の際、渡航禁止勧告を出していない。p.131-3

 新型コロナでは、この「教訓」が裏目に出たわけだ…