アスペルガー障害被告人の裁判員裁判 二例目

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 個人的には、結構重い刑だと感じる判決。もっと酷いことが普通に執行猶予になっていたりするのにと感じる。被告人がどの程度の症状かが分からないとなんともいえないところはあるけど。
 私自身はそれほど重くない口だと思うが、例えば事務の類の処理などのいつもの慣習と違うことは必要と認識していても先延ばしにすることが多い。小学一年の頃には、学校で配られるプリントを、そのまま机に詰め込んでいて怒られたこともあったな。「いつもと違うこと」をするのは、相当な苦痛。
 この被告人もそのような苦痛を感じて、目を逸らしていたのではないか。親が祖父の介護をしていたのを見ると、自分に出来る気がしない。親の介護が必要になったらどうしようか、と今から内心で途方に暮れていたりする。(それ以前に自分の将来をどないするみたいな問題が山積みで、そんな先のことなど考えてもしょうがないがな)

あと判決はそこまで意識はしていないのだと思いますが、これは実質的にはスキルの習得の失敗が処罰されているということになります。

まさにこの論理で判決が出ているわけで、怖い。


 「できれば刑務所に入りたくない」という言葉と、供述の変遷が重なって、裁判員の心証が悪くなったようだが、この言葉は、本当に魂の叫びなんじゃないかなと感じる。いや、私自身も、刑務所は怖いよなと思うのだ。他人に生活を管理される、雑居房でプライバシーなしとか、集団生活とか、絶対生きていける気がしない。実際に収監されるということが、一般人が思う以上に重い。
 だからこその供述の変遷なのだろうなと思う。私なら、気づいていながらも、能力的に出来なかったと主張し続ける。少なくとも、供述の変遷は不利と知っているけど、だからといって本当にそのような事態になったら、適切に自分を守る表現が出来るかどうかは怪しいところだ。
 そもそも、刑務所に収監されている人に知的障害者が多いというように、「適切に自分を守る表現が出来ない」人に、一方的に重くなるように、司法の制度ができているのは、問題だと思うのだが。取調べの時点で不利だし、検察側のストーリーに巻き込まれやすい。そこのところを考えると、やはりこの刑は重すぎるのではないかな。


 裁判官は、

、「自衛官として勤務しており、 知的能力も十分」とし、「できることをせず、被害者に悲惨な状況を生じさせた。罪を償わせる必要が高い」と弁護側の主張を退けた。

けど、アスペルガーの場合、表面的な「知的能力」は低くなくても、それを運用する能力に欠けていることが多い。出来るはずのことが苦痛。そこが問題なのだがな。その点では、裁判官・裁判員は理解していないように感じる。恐らく、被告は亡くなった奥さんが重篤な状況なのは、認識していたのだと思う。しかし、そこから先、救護行動を行なわなかったのが、「保身」のためなのか、「能力の不足」だったのかは、簡単には見分けがつかない部分だと思う。そこが、難しさなのだろうな。