鋤柄俊夫『日本中世都市遺跡の見方・歩き方:「市」と「館」を手がかりに』

日本中世都市遺跡の見方・歩き方―「市」と「館」を手がかりに

日本中世都市遺跡の見方・歩き方―「市」と「館」を手がかりに

 日本の中世の都市を、「歴史的景観復元」の手法によって、その特性を明らかにしようとしたもの。日本各地の都市遺跡を採り上げている。しかし、日本の「都市」というのは本当に痕跡が残りにくいのだなと感じる。ヨーロッパや中国を始め、大陸の諸都市というのは堅固な城壁を始め、各種の石造建造物で都市性というのが、明確に表現されるが、日本の都市は、木でできていて、土塁と堀で区画されていることが多いため、廃絶するとあっという間に痕跡が薄れてしまう。
 日本の都市遺跡に見る市と館の二重構造は、ヨーロッパの中世初期の都市が、教会・城・市場集落という機能的に分かれた集落が、その後拡大して一体化した、そのような地誌的発展と対比することができるだろう。また、本書で「求心性」と表現された、都市の凝集力は、地理学やヨーロッパの中世都市研究では、「中心地論」「中心地性」といった言葉で表わされるもので、分野によってタームが違うのが興味深い。
 あるいは、地域全体を重視する考え方も西洋中世都市の研究とリンクしていて興味深い。フェルナン・ブローデルの名前が出ているが、まさにそういう歴史研究の流れというのが見える。実際、都市を考えるときに、地域との関係というのは避けて通れないだろう。都市の基盤になる権力にしろ、流通にしろ、信仰にしろ、どれも地域から離れては存在できないものであるし。


 第一章は、研究史を振り返って「歴史的景観復元」の手法の重要性を指摘し、南河内を素材に当時の景観と都市的集落の性格を明らかにする。ただ、この章を読んで思ったのは、水田の痕跡を重視しすぎるのは、どこまで信頼できるのだろうかということ。確かに、考古学的・地誌的に検出できる痕跡は水田や高い畝を持った畑のみで、それだけしか利用できる情報がない。しかし、その地域・その集落のエコシステム全体を考慮する必要があるのではないか。燃料や建材、衣服、家畜がいれば飼料が必要だし、肥料はどうなっていたのか。そのような生活に必要な資源全部を考慮する必要があるのではないか。それは「水田経営中心」の河内でも同様だと思うのだが。特に、前近代には雑穀食が重要であり、それを供給する畑はどうなっていたのだろうか。
 第二章は、長野県の伴野、兵庫県にあった福原と大和田の泊、尾張国の富田荘から鎌倉期時代の様相を明らかにする。第三章は、日本海側の館や近江の城砦都市・敏満寺から室町時代の状況を。どちらも、交通路や市との関係を指摘する。このあたりを読むのに時間がかかった。その遺跡の場所についての知識がないと、イメージできない。さらに、ついている図が何を表現しているのかが、素人には良く分らない部分も。ビジュアル面では遺跡周辺の地形などの工夫がほしかったところ。
 第四章は、かわらけや瓦器碗、滑石製石鍋などの「物」の出土地とその性格から、人の流れ・つながりを析出する。有力寺社と神人などによる全国的なネットワークの存在が指摘される。第五章は、カテゴリーごとの個別の遺跡紹介。


 体調が悪いせいか、研究史に通じていないせいか、なんかわかったようなわからなかいような。要勉強。
 しかし、遺跡の発掘がこうも断片的だと、なかなかその遺跡がどんなものか想像がつかない。草戸千軒や一乗谷のような面的に発掘された例はまれだし、難しいな。本書で紹介されている遺跡の発掘図が、直線状なのが多くて、道路工事のために発掘された事例が多いのだろうと思った。


以下、メモ:

 そのために必要な作業は、その時代にその地域で、具体的に何があったのかを詳細にかつできるだけ客観的に、大量で多彩な情報を駆使して「復元」することで、それを厳密におこなうことで、様々な求心力を持った中世都市の特質が明らかにされ、周辺の都市との関係を説明する条件が整う。これまでの中世都市研究会の軌跡を振り返る中で、都市遺跡を見るときの重要なポイントは、このような都市遺跡相互の関係を意識したマクロ的でかつミクロ的な遺跡の分析ではないかと考えている。そしてそれを、ここでは歴史的景観復元と呼んでいきたいと思っている。p.12

 その点について重要な指摘をしているのが岡陽一郎氏である。氏は関東の中世居館が周辺地形の中で要害の地にあったことを確認し、さらにそればかりでなく、陸上や水上の交通路を視野に入ると、関東武士が農業生産とは別に交通に立脚した再生産構造を持っていた可能性を指摘した。
 また、館遺跡から出土する遺物に広域流通の結果を示すものが多いことも重視し、中世前期の武士は農業経営と共に交通と交易が重要なキーワードになり、彼らの拠点は地方の農村といったものではなく、「極めて都市的な性格」があったとした。p.78-79

 これまで集落の成立と存続については、特に畿内を中心として水田経営を前提とする考え方が強かった。しかし本来は、地域毎に異なっていた様々な背景を前提に考えなおす必要がある。『富田荘絵図』と遺跡の関係は、それが中世の都市遺跡を見る際にも重要なポイントであることを明確に示している。p.122