安井國雄他編著『産業の再生と大都市:大阪産業の過去・現在・未来』

産業の再生と大都市―大阪産業の過去・現在・未来 (MINERVA現代経済学叢書)

産業の再生と大都市―大阪産業の過去・現在・未来 (MINERVA現代経済学叢書)

 大阪の「地盤沈下」「絶対的衰退」の状況に対し、どのような処方箋が書けるのか、前提として過去からの展開、現状、さらには将来採るべき対策を検討している。大阪市大の経営学部を中心に書かれた本。
 第一部「大阪の産業構造と都市の変貌」は大阪市全体の歴史的展開と都市政策、産業政策の検討、第二部「大阪の都市型産業の盛衰と展望」は、いくつかの主要な業種についてどのような展開があったかを整理。私自身が本書を読んでみる気になったのはこの部分から。第三部「産業再生と産業政策の可能性」はどのような政策が必要かの議論。東京、特に大田区などの産業政策との比較や理論的検討。


 戦後すぐあたりまでの大阪の製造業というと、粗質・安価な消費物資を分業で生産し輸出するというのが主体であったように見える。繊維製品、各種の雑貨、自転車やミシンのような耐久消費財などでそのような性格を見てとれる。しかし、それはニクソンショック以降、円高の進行とともに不利になって、最終的には中国との価格競争に圧倒される。そう考えると、『スラムの惑星』(ISBN:4750331902)で

都市成長は、中国、韓国、台湾における強力な製造品輸出という原動力や、中国における膨大な外資の流れ(いまでは開発途上世界全体におけるすべての外国投資のおよそ半分にひとしい)を欠いている。1980年代のなかば以来、南側諸国の巨大な工業都市――ボンベイヨハネスブルクブエノスアイレス、ベロホリゾンテ、サンパウロ――はすべて、大規模な工場閉鎖と脱工業化の進行にみまわれた。

と述べられている状況と軌を一にしているように思う。海外輸出産業の競争力喪失による失業の増大。
 これに対しては、輸出産業を担っていた中小製造業への各種の支援が必要だったように思えるが、そこで失敗した部分は大きいのだろう。まあ、雑貨の工程のごく一部を担うような零細な生産者の群を新たな方向に向ける出口戦略なんてのは、なかなか思いつくものではないのだけれども。
 あと、「産業集積」に対する政策として、「生涯学習」や「成人学習」もふくんだ教育というのが、結構重要なのではないかと感じる。人と人をつなぐ媒介としての教育とでも言おうか。中小企業の経営者・従業員対象の講座、高校・大学・専門学校への産業団体や企業からの出前講座、学生・経営者・一般の人など異分野間でのツアーや見学会などから、人のつながり、情報の流通を促進するということはできないだろうかと考えた。


 以下、メモ:

 第二には、この大都市コンビナート開発過程は、戦前からの大阪の都市政治という点からみると、それまでの大阪経済の主役であった関西・大阪財界の変質、リーダーの交替の転換点でもあったことである。大阪経済の重化学工業化問題をめぐる各界の動向や、当時の大阪の有力資本の企業戦略の展開を具体的にトレースすると、この堺・泉北臨海工業地帯建設計画に対しては、当時の大阪財界からまとまった積極的な提案はなく、さらにまた関電はともかく、住友や三和など大阪の大企業グループらは、一般論としての大阪経済の重化学工業化の必要性は認めながら、自らは堺・泉北進出に深く関わろうとはせず、関東圏など他地域に新鋭工場の拠点を求め、「脱大坂」の動きを示すのである。逆に最も意欲的に堺・泉北進出をはかったのは、関東に本拠をおく三井グループであった。
 こうして大阪経済は、素材型重化学工業化の進展とともに、地域性・土着性をもたぬ巨大企業群の支配するところとなり、中央集権的な経済構造に組み込まれていった。加茂利男は、まさにこの過程こそ、旧き大阪の都市政治の主役であった大阪財界(=土着の自由な産業資本による)の変貌・変質の転換点であり、大阪経済が経済的にみて外からの超絶的な力によって「開発」されたにほとしく、戦後大阪の都市自治都市政策の「後退」を規定したという。したがってまた、堺・泉北コンビナート開発は、内実はその後全国的に展開される「拠点開発」(=新産業都市建設)に共通する「植民地型開発」の性格をおびるものとなった。p.45

 「内発的発展」の可能性の喪失

 しかし、堺・泉北コンビナートが地域経済や環境に与えた影響はよりドラスチックである。大阪府下面積の1%相当にすぎない埋立造成地に立地したわずか百数十の事業所が、大阪の地域資源を実に大量に使用し、かつ大量の大気汚染物質を排出する府下工業の最大の公害汚染源であった。堺・泉北コンビナートはこのように環境破壊、資源浪費の点であまりにも不経済な一方、それに比べて付加価値・雇用・税収など経済・財政への寄与度は低かった。結局、ここから透けてみえることは大阪の工業の大部分の所得・雇用・税収を支えているのは、分厚い中小零細の都市型工業であるということであろう。さらにまた、このコンビナートで生産される素材が、既成工業地帯である地元に供給され加工される割合は、石油を除いて小さく、鉄鋼では20%、石油化学では10%程度で、下請関係の取引も含めて、地元産業との産業連関は希薄であった。そしてこれらの結果としての所得効果では、生産所得(ないしは製造品出荷額)は大きいが、それが地域内で循環する割合は小さく、立地工場の本社のある他地域に所得の「濾出」減少を起こしていたのである。まさにこの開発が、大都市コンビナートであるにもかかわらず、地域とは超絶した「植民地型開発」といわれた由縁はここにある。コンビナート建設は、都市政策としてはいうまでもなく、明らかに産業政策としても失敗したのである。p.50-52

 同ページ内の図では、NOx排出量の42%、電力使用量の41%、工業用水使用量の22%、を占めながら、製造品出荷額の11%、付加価値額の8%、雇用と事業税は2%未満という状況だから、本当に政策としては効率が悪い。地域内での循環を作れなかったという点でも大きな失敗だろう。

国土庁の『第四次全国総合開発計画』(1987年)である。周知のように「四全総」はその目標として「多極分散型国土の形成」をいたった。しかし、この計画の本音は、当時の中曽根首相の異例の指示によって練り直しが行われて出された『第四次全国総合計画調査審議経過報告書』(1986年12月)に明らかなように、国際化を背景にした日本経済の成長における東京一極集中のメリットを積極的に評価し、「東京問題」の克服と「世界都市」東京圏整備の方針を中心課題としていたものであった。東京一極集中を国土政策的に助長するかのようにうけとめられたこの報告は、当然大阪圏を始めとする地方圏から、地方を「『東京電算機』の端末視」するものという猛烈な批判と政治的反発が引き起こされ、最終的に「四全総」は、東京一極集中の是正を掲げるが、「経過報告」の基本線は根本的には最後まで貫かれていた。p.59

 本当に中曽根は碌なことしていないな。

 第五に、経済のグローバル化が進み、企業活動が国境の枠を超えて展開している中で、地域内の企業の事業活動が活発化することと、地域経済が活性化することが必ずしも直接結びつかないことがある。特に施策として地域内の企業を支援する場合には、企業への支援と地域経済の活性化がどのように結びついているのか、どのように関連づけるべきなのかを考えていかなければならない。p.208

 シマノと堺の自転車産業集積の関係みたいだな。