安井國雄他編著『産業の再生と大都市:大阪産業の過去・現在・未来』その2

産業の再生と大都市―大阪産業の過去・現在・未来 (MINERVA現代経済学叢書)

産業の再生と大都市―大阪産業の過去・現在・未来 (MINERVA現代経済学叢書)

 昨日は途中で力尽きたので、残りのメモと文献メモ。

(2)中心部に形成される新たな商業集積
 しかし、これもすでに指摘したが、中心商業集積の魅力を構成するのは百貨店や専門店ビルに代表される大規模小売店舗だけではない。むしろ、その周辺の、中小小売店舗から構成される商業集積の貢献を評価しておかなけれればならない。ミナミでいえば、20数年前から形成されはじめたアメリカ村はやがて広域の商業集積として確立した。その影響は、いまや心斎橋筋商店街にまで及んでいるし、さらには長堀から堀江に向かって拡大しつつある。この若者を中心とした独特のファッション街をぬきにして、ミナミの小売業を語ることはできない。
 そして、いまや類似のことがキタでも起こりはじめている。阪急の北側、茶屋街界隈はロフトの出店以来、少しずつ賑わいを高めてきたが、いまそれが東に進んで中崎町界隈にまで及びはじめている。ここでも、特に若い女性を対象とした新たなトレンドが生み出されようとしている。まちに新たな風を絶え間なく送り込んでいるのは、むしろこうした中小小売店舗からなる商業集積である。大規模店舗が新風を吹き込まないというわけではないが、変化への柔軟性という点では圧倒的な差があると考えるのが普通である。
 これらはいずれも、巨大な商業中心地に隣接しながら、長らく取り残されてたような状態にあったところである。そこが、市街地再開発や区画整理といった大規模な開発を伴うことなく、徐々に時間をかけて集積を形成し、その厚みを増している。これらのまちが自然発生的に形成されているなどと言えば、明らかに言いすぎである。そこには何人かの仕掛け人やその支援者たちがいて、まちを意図的に変えていこうとしている。彼らは決して大規模ではないし、一つ一つの行動もそれほど大規模なものではない。それでも、それらが積み重なり、時間を重ねる中で、着実な動きとなって現れてくる。その意味で、こうした商業集積が確かに人々の意図的な営みの結果であることは間違いない。
 しかし、それにもかかわらず、そこには全体を管理するような決定の中心もなければ、全体の動向を左右するような大規模な事業もない。仕掛け人たちの行動に敏感に反応して、そこにビジネス・チャンスを見出す小さな事業者たちの、多くの積み重ねが新しいまちをつくり、都心部の商業集積を動かす。その動きの全体が計画されているわけではない。したがって、一気に爆発するような影響力はない。それだけに、向かう方向を予測することは困難であるし、ましてやその速度を予測することは絶望的に難しい。
 私たちは、ややもすれば、大規模な小売企業や大規模な開発に目を奪われがちである。それらが重要であることは間違いないが、大阪市の小売業を最も生き生きと支えているのが、これらの中小小売業であることは、もっと強調されてしかるべきであろう。p.177-8

 大規模な開発を経ない、仕掛け人たちによって動かされた商業集積の魅力。熊本でいえば、上乃裏通りあたりがそんな感じだろうか。昔のシャワー通りもそうだったのかもしれない。そのような計画性のない商業集積は本当に魅力的。まちづくり、街の魅力という観点からは、このあたりを重視すべきなのだろうな。すぐに再開発ビルとかやるのは愚策。

 それらと相俟って、戦後大阪開発論の第四の特徴は、ごく最近になるまで、大阪都市圏の「集積の利益」についての自己評価や地域資源を省みることなく、一貫していわゆる「外来型開発」による地域産業・経済振興路線を志向してきたことである。それはまず、大阪府の堺・泉北地区と大阪市の大阪南港地区への重化学コンビナート誘致に向けての府・市競争に典型的な姿をとって登場した。この開発の論理は、結局のところ、大阪の既存産業の直接的振興や産業構造転換を目指したものというよりは、自治体産業政策を産業基盤整備の公共・土木事業に解消し、外部から成長産業や企業を誘致してその波及効果で大阪経済の振興を図るという間接的振興論であった。
 その後、重化学コンビナート誘致の方針の修正の必要性が認識されるようになると、大阪市は都心の再開発による管理・流通基地整備、大阪府が周辺地・広域的地域の産業基盤整備・開発と、それぞれの役割分担を明確にしつつ、都市の経済機能の効率的再編成に向けての「都市政策」(=「産業政策」)への取り組みに路線転換が図られるが、その場合でも、外からイベントの誘致や、それに関連する大規模プロジェクト事業と国の補助金の導入等を契機にして都市基盤整備を行い、中枢管理機能や都市資本の活性化を目指そうというものであった。いわばこれは「公共・土木事業優先」主義の間接的振興論であり、産業政策という視点からいえば、こうした間接的な都市基盤整備と直接的な既存産業の振興施策とを結合する政策の具体化が必要だったのであるが、その点はほとんど見るべきものはなかった。いずれにせよ産業政策としては、外部依存型の公共・土木事業の導入に依存し、その波及効果を期待する間接振興論=「外来型開発」であったという特質は、今日まで変わることなく継承されてきた。p.242

 戦後大阪の産業政策の問題点。産業政策に関してはそうなのかもしれないな。もともと、大阪は製造卸や中小の輸出産業が強みだったわけで、そこにテコ入れする必要はあっただろう。


文献メモ:

  • 第4章「機械工業と産業集積の系譜」から
    • 天川康「戦時経済移行期の大阪工業」大阪歴史学会『近代大阪の歴史的展開』吉川弘文館、1976
    • 黄完晟『日本都市中小工業史』臨川書店、1993
    • 植田浩史「1930年代大阪の中小機械・金属工業」廣川偵秀『近代大阪の行政・社会・経済』青木書店、1998
    • 川村正晃「明治後期の大阪の機械工業について」『地方史研究』46-2、1996
    • 沢井実「明治中後大阪の機械工業」『大阪大学経済学』48-3・4、1999
    • 沢井実「中小機械工業の展開と技術教育・公設試験研究機関・機械商・機械工具商街の役割」『大阪大学経済学』49-2、2000
    • 辻悟一「戦前期大阪の工業:統計資料による若干の考察」『経済学雑誌』90-2、1989
    • 長谷川信「1920年代の電気機械市場」『社会経済史学』45-4,1979
  • 第9章「小売業とまちづくり」
    • 石井淳蔵『商人家族と市場社会:もう一つの消費社会論』有斐閣、1996
    • 石原武政『公設小売市場の生成と展開』千倉書房、1989
    • 石原武政「小売商人の居住形態」『都市社会学』34号、2001



 他の情報源として: