杉本仁『選挙の民俗誌:日本的政治風土の基層』

選挙の民俗誌―日本的政治風土の基層

選挙の民俗誌―日本的政治風土の基層

 山梨県での選挙運動から、選挙をめぐる習俗やそれを規定する人間関係の枠組みを析出する書物。いや、こういう世界とは全く縁がないので、もうどっか別の国の話を読んでいるような気分だった。すごいな甲州… 
 私自身は、「激変2:新政権で何を盛るのか」『朝日新聞』09/9/2でも引用した、

 福岡2区は「たんぼのない選挙区」。自民党の重鎮、山崎拓氏も、マンションにロックされた住民たちの冷たい「サイレントマジョリティー」を感じた。いくら組織を固めても届かない、過去の肩書も実績も役に立たない。個々の候補者がもがいても見えないところに、有権者がいた。

といった方の世界に属するので、感心するばかりだった。熊本でも、こういう形の選挙活動は行われているのだろうけど。例えば、熊本市議会の議員は、熊本市周辺の旧農村部から出ている人が目立つが、そういう人も、本書で描かれるような活動と似たようなことはやっているのだろうとは思うのだが。まあ、中傷ビラや怪文書が乱れ飛ぶような事態は、さすがにないと思うけど。


 本書は三部構成になっている。
 第一章「ムラ祭りとしての選挙」が、選挙を巡る様々な活動を祭りになぞらえて描いている。1990年代に入っても、選挙の直前には「道切り」をやっているというのが凄い。神輿に乗って「神になっていく」候補者という位置づけも興味深い。ソースを様々なところから引っ張ってきているので、このような額面どうりの展開がどこまで適用できるかはよくわからないが。
 第二章「ムラの選挙装置と民俗」は、民俗的な起源をもつ人間関係の組織、システムを用いて、政治家たちがどのように支持を調達しているかを描く。血縁や地縁の組織であるイッケやジルイ、親分子分慣行といったパトロネージシステム、、金融システムから親睦会的な存在に変化した無尽といったものをつうじて、どのように支持を集めているか。また、それらの制度が選挙に向けてどのような形に変容したのかを明らかにする。
 第三章「ムラの精神風土と金丸信」は、山梨出身の政治家である金丸信の経歴をつうじて、「日本的政治家」がどのようにして権力を蓄えたのか、そのために必要な資質は何かということを明らかにしている。
 ムラの民俗装置を通じた濃密な人間関係によって、政治家が送り出されていることがわかって興味深い。しかし、本書で描かれるような村共同体や無尽などの網の目に入っていない人はかなりいると思うのだが、そのあたりはどうなのだろうか。
 また、クリフォード・ギアツの『ヌガラ:19世紀バリの劇場国家』やカール・ポランニーの『経済と文明:ダホメの経済人類学的分析』にも通じる話だが、どうも話が静態的なのが気になる。個々の個人からなる構成員がどう変動していくのか、そこをどう拾い上げて、議論に組み込んでいくことも重要だと思う。実際、高度成長をつうじて、山梨でも、それぞれの住民の生業は変化していっているのではないだろうか。農民というか、小農経済から、サラリーマンや建設会社などへの転進、大学進学に伴う歩との流出などの変化は容易に想像できる。それが、ムラやイエなどの枠組みにマスクされて見えなくなっているのは問題ではないだろうか。あと、本書のようなローカルな事例から、一足飛びに「日本」を意識してしまうのも、どうかと思う。


 以下、メモ:

 なお、同市での同族団が、選挙に効力を発揮する組織であることを学問的に考究したのは、同市に調査目的で住み込んでいた藤沢宏光で、彼の考察によれば1955年4月の市議会で、下吉田地区の「田辺イットウ」(下吉田地区では同族団をこう称する)が、イットウのオオヤを立候補させ当選を勝ち取ったのがきっかけであったという(『地方都市の生態』)。このおりには、田辺イットウの構成員六十二世帯をを母体に、その関係者の親戚や取引仲間を囲い込み、集票が行われ、候補者は八百四十三票を獲得し、第二位で当選した。
 以後、富士吉田市内では、同族団を中心にした選挙色が強まり、そのことによって逆に同族団の活性化が計られた。すなわち戦後の民主化で、解体されかかっていた同族団は、選挙運動で再び結合が促され、その社会的機能をよみがえらされたのである。p.97

 選挙を核にした同族団の再編成というのが興味深い。しかし、このような固い同族団ってのは、全国でどのくらいあるのかね。→藤沢宏光『地方都市の生態』日本評論新社、1958

書籍無尽
 知識階級においてもユニークな無尽が行われている。韮崎市在住の郷土史家による無尽である。これは書籍を購入するための無尽会(「五車会」)であった。「無尽会であるから、定められた掛け金をすませ、せりに入る。せりの最高のものがせり落とすことになる。せり落としたものは、その金額でかねて目をつけておいた書籍を購入し、これを勉強して次回にその要点を発表、質問応答する」(『五車』)という。落札した無尽金で本を購入し、その本の読書紹介という勉強会を立ち上げたのである。
 この五車会の無尽は、1954(昭和29)年4月12日に第一回会合を開いて以来、現在まで毎月一回、四百回余り半世紀以上にわたって行われている。この間、会員は読書無尽に止まらず、著書の刊行や「願成寺阿弥陀三尊保存庫」建設をはじめとする郷土の文化財の保存や振興にも尽力してきた。また、山梨県内の郷土研究の業績を年度ごとに顕彰する最も権威ある「野口賞」にも、三名の会員(佐藤八郎・菊島信清・山寺仁太郎)が選ばれている。p.140-1

 面白い活動。無尽を利用した、学習・文化活動組織。他にも山梨県では、生活改善や親睦を目的とした無尽がたくさんあるそうな。

 しかし、政治手法と民俗という観点に限定すれば、民の生活状態をお上に伝へ、お上が施政する、その媒介を忠実に果たした政治家こそが金丸信であったとはいえる。「私心がない政治家」と自らがいうように、常民の保持してきた民俗をお上の政治に還流した真に誠実な政治家だったといえなくもないのである。
 政治とは、民の在り方を反映しない限り権力を維持し得ないものである。それゆえに権力維持のためには、絶えず民間習俗(民俗)を繰り込まなければならない危うい装置なのである。権力獲得・維持のために、民俗を絶えず国政に組み込んだのが、大政治家たる金丸信の源泉であったというべきであろう。p.238

 そのようなムラの民俗を取り込んできたからこその、55年体制の安定があったのだろうな。しかし、ムラ社会が衰退し、都市化・無縁化が進んだ結果、社会の安定は失われた。そのような社会の変化を織り込んだ上で、どのような形に選挙の習俗がなるべきかというのは大きな問題だろう。

 しかし、この地方を悩ましていた「地方病」(日本住血吸虫病)は猛威を振るい、1968年の時点で今諏訪地区は受検者四百七十名中陽性者三百七十三名、実に七九・四パーセントに及び、保卵者も十名以上に及んでいた(『白根町誌』)。そのため釜無川河川敷の水田地帯は、この病の中間宿主の宮入貝撲滅のために水路・溝渠のコンクリート化、さらには水田破棄・果樹園への転換を余儀なくされた。今日の果樹地帯は、こうして出来上がったものである。そのためムラはセギ普請が不可欠で、共同作業による水路の清掃は、いまでも欠かすことができない。その努力もあり、1979年に県下での新感染者はゼロになり、以後発見されず1996年には知事が「地方病終息宣言」を出している。p.248-9

 ちょくちょく、日本住血吸虫病の話に出会うので気になった。山梨県内の日本住血吸虫病の蔓延地って、金丸信の出身地だったのだな。しかし、この病気がこの土地で拡大したのはなぜだろう。江戸時代後期に水田の拡大でもあったのだろうか。