- 作者: 「熊本城400年と熊本ルネッサンス」県民運動本部
- 出版社/メーカー: 熊本日日新聞社
- 発売日: 2006/04
- メディア: 単行本
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興味深かったのは第三回「肥後六花」、第六回「藤崎宮大祭今昔」、第七回「宝暦の改革:その今日的意義」、第十一回「熊本城下の商家」あたり。
肥後六花の花の特徴と武士の精神修養としての態度の関連性などが興味深い。確かに、こう言っては何だが、しちめんどくさい作法が多いんだよな。清楚というか、シンプルと言うか、そういうところが魅力なのだが。あと、藤崎宮の祭りの時代ごとの変遷も興味深い。今見ている形が、ごく最近形成されたという。
細川重賢の宝暦の改革も興味深い。本書では熊大の吉村豊雄教授が以下のように述べている。
堀は大坂に行き、年貢米のうちから十万石程度を無条件で大坂に持っていくという約束をしました。三十五万石の収入の中から十万石の米を持っていくわけで、必要経費以外はほとんど持っていかれる、そういう経済の仕組みをつくる必要があったわけです。ですから、こうした大坂との関係は、この後幕末にかけての藩の経済体制を考える上でも決定的な意味があります。
例えば、佐賀藩は宝暦ごろから大阪市場から脱却していきます。「佐賀の藩内に大坂をつくる」と言っているのです。山口藩も大坂から金を借りるのではなく、馬関(下関)海峡を通る船に逆に金を貸しつけます。いわば藩が商人となるようなコースをとる。これに対して、あくまでも熊本は大坂の商人に依存します。そこが後に雄藩と呼ばれるような藩とは決定的に違います。p.113-4
従属理論的に考えると、熊本藩は自らを周縁に押しやるような改革をやった。金融的に大坂に依存し、コメモノカルチャー的な経済体制を取るようになったと考えていいのではないか。だからこそ、熊本県内では各種の手工業生産の影が薄くなったと考えられよう。
その上で、窮乏化した武士を「教化」し、藩内を規律化するために藩校時習館の設置や刑法の編纂を行った。地方行政では、農村上層部を「在御家人」として武士・役人として体制に取り込み、地方行政を担わせた。権限を大幅に委譲して、藩は許認可と資金の貸付のみ関わり、実際の活動は地域に担わせた。それだけ、地域の共同体の実力が高かったということなんだろうけど、現在の視点から見るとそのまま「新自由主義」的な改革だよな…