小菅桂子『カレーライスの誕生』

カレーライスの誕生 (講談社選書メチエ)

カレーライスの誕生 (講談社選書メチエ)

 インドからイギリス経由で日本に入ってきた「カレー」が、どのような経緯を経て土着化を果たしたか。こうして歴史的経緯を追及すると、ひとつの料理が換骨奪胎されて定着するには、それなりの時間がかかるのだなと感じる。幕末の渡航者たちがバターの匂いに耐えられなくて、洋食を全然食べられなかったとか、女学校で牛乳を飲ませようとすると顔をしかめたなんてエピソードをが興味深い。いかに、食の好みが強いか、変えにくいか。そこから、料理書などに載って、ある程度広い階層に広まるのが明治の末年ごろで、この時点で40年以上かかっている。これがさらに大衆化していくのは大正から昭和の初めにかけて。大都市以外に広がっていくのは、むしろ戦後に、カレールウが販売されるようになってからなのかもしれない。そう考えると、食習慣の慣性の強さというのが逆に強調されるよな。あと、大阪と東京のカレー文化の違いなんかも興味深い。東京では豚肉が45%程度使われ、大阪では牛肉が8割。また、関西では、カレーにソースや生卵をトッピングする割合が高いとか。
 ツーリズムもそうだが、食生活などの生活文化の側面からすると、昭和10年までと昭和30年以降は継続性が高いなと思う。戦時体制というのが、日本の社会をいかに歪めたか。


 日本におけるカレーの歴史については第三章から始まっている。明治の初めごろ。西洋料理が導入、西洋野菜生産の拡散、現在のカレーの主要な具であるジャガイモ、タマネギ、ニンジンがいつ頃揃うのか。料理書などを主要な情報源としながら検証している。ネギがいつ頃タマネギと置き換わったか。西洋野菜とカレーの拡散における開拓使が雇ったアメリカ人の果たした役割。カレーの「三種の神器」が料理書で一般的になるのは、やはり明治の終わり、40年代に入ってからのようだ。また、この時代には、料理書の読者は限られた階層であり、その情報の拡散は限られていたという。
 第四章はカレーが日本人の舌に合わせて改変されていく過程。西洋料理店での日本人向けの改変、野菜志向のカレーレシピ、福神漬けとカレーの結合の過程など。また、即席カレーやカレー南蛮、カレーパンなどの改変料理の出現。明治30年代以降、和洋折衷の惣菜が家庭に入り始める状況。エリート階層のカレーの状況、江戸の下町や鉄道の待合室などにおけるごった煮カレーといった風情のカレーが普及する状況。大正時代はカレー、コロッケ、トンカツという三大洋食が日本の過程に定着していく時代であると指摘する。これらが、米飯と組み合わさった料理であることが、浸透を可能にしたと指摘する。
 第五章では「カレー二都物語」と称して、大正から昭和前半にかけての展開、カレーの全国への展開を追っている。東京に関しては、中村屋インドカレーについて詳述しつつ、高級化路線への動きを指摘する。一方、大阪では阪急百貨店食堂の大繁盛と大衆化の動き。また、C&Bカレー粉の偽造事件から国産カレー粉の評価の上昇、『聞き書き熊本の食事』をはじめとする農山漁村文化協会のシリーズを利用した昭和の初めのカレーの拡散状態、軍隊やラジオ講座を通じたカレーの調理法や味の拡散など。わたしも『聞き書き熊本の食事』asin:4540870319で大正から昭和初年にかけて、熊本市近郊の農村でカレーをつくっているというのが印象に残っていた。これでは馬肉を使っているが、これはおそらく廃用となった使役馬を解体したものだろうと思うのだが。あとは、中村屋インドカレーのもとになったラース・ビハーリー・ボース については『中村屋のボース』asin:4560027781って本があったなと。これはインド独立運動に関連した話が中心のようだが。
 第六章では戦後の展開。1950年の小麦粉の統制撤廃から始まるカレー産業の復興と固体カレールウの開発、1969年のレトルトカレーの開発が、戦後カレー史の画期だな。あと、このあたりになるとハウスやエスビー、あるいはボンカレーなどの、いまでも良く出会う名前に出会うようになる。


 ちょっと関係ないが、明治19年刊行の『熊本商家繁盛図録』http://d.hatena.ne.jp/taron/20070518#p3という商家の宣伝本には、西洋料理店が既に存在する。熊本市内の上層階層に限れば、比較的早い段階から、カレーは入っていたのだろう。


 以下、メモ:

 この『東方案内記』はアジア、アフリカ、南北アメリカ百般の事情、貿易の実態などをオランダに伝え、その後のオランダ東インド会社設立の端緒となったのである。その『東方案内記』には、つぎのように記されてある。


 インディエは魚が豊富で、そのうえなかなかうまいものがある。いちばんうまいのは、モルデシーン、パンパノそれにタティンゴという魚だ。ペイシェ・セーラというのがあるが、これは鮭のように筒切りにして塩で漬けると実に美味で、また長もちするから、航海中の食料として携行するとよいだろう。魚はたいていスープで煮込み、米飯にかけて食べる。この煮込み汁をカリールという。やや酸味があって、クライス・ベス(酸ぐりの一種)か未熟の葡萄でも混ぜたような味だが、なかなか美味で、カリール料理はインディエ人の常食である。


 カリールとはインド料理のいわゆるカレーのことであり、ポルトガル人は訛ってカリールと称したと『東方案内記』には註釈がある。リンスホーテンの食べたカレーは酸味があったとあることから、現在のインドカレーと異なっていたことは確かである。タマリンドが使われていた可能性もある。これは東南アジア地方で広く使われている柑橘類で、酸味を出したい料理に使う。リンスホーテンが「なかなか美味だった」と記しているところに興味をひかれる。p.45-6

 これはトウガラシが普及する前の状態を示しているのだろうか。『東方案内記』は16世紀の末の著作だから、導入されても普及してはいなかったのだろう。そう考えると、トウガラシが世界の食生活をどのように変えたのかというのも興味深い。インドにしろ、韓国にしろ、東南アジア諸国にしろ、現在は激辛で知られる国の料理も、16世紀以前はどのようなものだったのだろうか。南アジアから東南アジアにかけては酸味主体だったのだろうか。

 では本当に肉類は食べなかったかというと決してそんなことはない。中世になると新興武士階級を中心に狩猟獲物の獣肉食が広まる。その後もたびたび禁断令が出ていることを考えると、じつは盛大に食べていたのである。貴族たちは薬猟と称して狩猟を楽しんでいる。水戸黄門然りである。黄門様は大の牛肉党であった。黄門邸には氷室があり、水戸城下の渋田には「ししぐら」が、また隠居所であった常陸大田の西山荘にも氷室のあったことが確認されている。p.59

 この肉食再開について原田信男氏は『歴史の中の米と肉』のなかで、御岳行者による皇居進入事件を報じている。宮中における肉食の再開を知った御岳行者の一団が、天皇に肉食禁止をはじめとする意見の具申を目的として、皇居に入ろうとした。これは当然乱入とみなされ、10名のうち4名が死亡、1名が重傷を負い、他の者は全員逮捕されたという。精進潔斎を行とする山岳信仰の信者にとっては、肉食には殊のほか敏感であった。こうした行動こそ起こさなくても肉食を穢れとする風潮は一般にもあったのである。
 『武士の娘』(筑摩書房、1967年)の著者である杉本鉞子さんは明治7(1874)年、長岡藩家老稲垣平助の次女として生まれている。鉞子さんが8歳のころ、学校から帰ると、「女中は仏壇の扉にめばりをしている」ところだった。理由を尋ねると祖母が「お父様が家の中で牛肉をたべようとおっしゃったのでね。何でも、異国風の医学を勉強なされたお医者様が、お肉を頂けば、お父様のお身体も強くなり、お前たちも異人さんのように、丈夫で賢い子供になれるとおっしゃったそうでね、もうじき牛肉が届くという事ですから、仏様を穢してはもったいないとこうしてめばりをしているわけなんです」と説明する。仏様を汚してはいけないと仏壇に目張りをしたというわけである。もちろんその夕食に祖母は姿を見せなかった。しかし「姉と私は二人でそっとお肉の美味しかったことを話し合いましたが他の誰にもこんなことは申しませんでした」と記している。p.61-2

 このあたりの肉食とその禁忌がどのように共存したのかというのはよく分からないところがある。殺生禁断には、魚類を食べることも含まれるし余計にわからない。

 子どものころの食卓の思い出であるという。文六少年が仮に10歳の時の食卓とすると、明治36(1903)年ごろということになる。このなかで、「国産のカレー粉がないから」とあるが、これは関東の話で、大阪ではすでに薬種問屋の今村弥が国産初のカレー粉を売りだしていた。しかし当時は現在とはちがい情報網も流通も発達していなかった。したがって大阪の商品が東京、横浜に届くにはかなり時間がかかっていたのである。全国の味が行き交い、情報が飛び交うようになったのは民間放送が開局し、コマーシャルが精進情報のPRを開始してからのこと、大阪の珍味、やとえばとろろこぶが東京で手に入るようになったのは東京駅に大丸がオープンしてはじめて可能になったのである。九州でいえば博多名物の明太子、これは山陽新幹線が開通してこれまたはじめて東京で買えるようになったのである。p.134-5

 食文化の地域性がいつ頃均されていったのか。局地的にも、魚類の流通なんかは非常に地域性が強い。例えば、熊本城下では金持の需要があったから魚の市場があっても、他の内陸部では魚食の習慣がなかったりとか。放送メディアと交通の変化の重要性。

 かつて読んだ資料には、牛肉不足のため、ついには遠くアメリカや中国から牛肉を購入したが、それでも足りず、慶応初年ごろには、外国商船が神戸で三丹州の牛(但馬・丹波・丹後地方の牛)を30-40頭購入して横浜に輸入したところ、まことに評判がよかったという記録も残っている。つまり幕末のころから関西の牛肉は外国人のあいだで人気があったのである。p.145

 丹波牛の起源(違う)。

 カレーライスの普及に忘れてはならないのが軍隊である、と強調するのは山本嘉次郎である。『日本三大洋食考』(昭文社、1973年)のなかで山本氏は、


 ライスカレーが一般化したのは軍隊のおかげであるという説がある。大体、日本の家庭のおそうざいは、わりに手がかかる。たとえ一汁一菜にしろ、みそ汁をつくる。魚を焼く。それにおこうこも、ぬかみそから出して洗って刻む。湯をわかし、茶を焙じて番茶をつくる。それがカレーライスだと手間を要さない。野菜を刻み、肉とともに一緒クタに煮る。野菜が柔らかくなったら、メリケン粉とカレー粉を入れて一丁上がりである。地方の青年が入隊して、軍隊でカレーの味と作り方をおぼえて、それを農村に持ち帰った。農繁期のときなんか、とくに便利である。ちかごろ、農村ではライスカレーが流行っている。


 地方の青年が軍隊でカレーの作り方を覚えて、それを地方で広めたというのである。p.181-2

 拡散の回路としては、そういうのもありうるのだろうな。しかし、大正から昭和にかけての軍隊のマニュアルを引用しているが、この時代には具材を炒めないんだな。

 『聞き書き熊本の食事』(農山漁村文化協会、1987年)は、熊本近郊における大正の終わりから昭和のはじめにかけての食生活を、つぎのように記している。


 並建にて、週に二度くらい、振り売りの肉屋さんが馬肉をもってくる。(略)こま切りの馬肉を買うとカレーライスをつくり、家族を喜ばせている。
 細かく切ったじゃがいも、たまねぎ、にんじん、馬肉少々にひたひたの水を加えて炊き、塩とカレー粉、醤油で味をつけてから、小麦粉の水溶きを加える、麦飯にかけて食べる。
 カレーライスをつくる家はあまりないので、たまたま訪れた近所の人たちからも珍しがられる。


 「馬肉カレー」とでも呼べばいいのだろうか。当時、熊本の近郊ではカレーライスはあまり作られていなかった。しのようななか、熊本ではなじみのある馬肉を入れたカレーライスをつくっていたことになる。
(中略)
 このように、ご当地カレーがいくつか作られていはいたが、全体からみると、昭和10(1935)年ころという時代はカレー自体が全国に普及していたとはいえない。『日本の食生活全集』(農山漁村文化協会)は47都道府県別の構成(他にアイヌの食事などもあり、全50巻)をとっているが、カレーの記述があるのは、10に満たない。p.184-5

 昭和初年の普及状況。コールドチェーンの普及以前には、食生活の地域性というのは非常に強かったのだろうな。

 また、この年には肉屋にたいし、「犬、タツノオトシゴ、オットセイの肉も販売してよろしい」という通達が出された。p.193

 昭和16年のこと。つまり戦時中は犬の肉も普通に喰っていたわけか。あと、タツノオトシゴをどうやって食うんだ…