青木宏一郎『江戸の園芸:自然と行楽文化』

江戸の園芸―自然と行楽文化 (ちくま新書)

江戸の園芸―自然と行楽文化 (ちくま新書)

 別の本の余った原稿を転用したらしく、なんか雑然としたというか、それぞれの章の関連性が薄い書物。総花的に園芸・行楽などの知識を得るには悪くない。巻末の園芸書の年表や参考文献はそれなりに有用。
 本書を読んで気になるには、どうにも無邪気な理想化の匂いがすること。鳥取や島根のたたら製鉄のための砂鉄採取で近いが変わった状況などを考えると、日本人もかなり派手な環境破壊を行っているわけで。環境意識や自然観から、江戸が相対的に清潔だったという問題を議論するのはためらわれる。屎尿の肥料としての利用は、オランダやイギリスでは行われていたようだし、南から東南アジアの都市も同様だったようだ。その点で、あまり日本の特異性を強調すべきではないと思う。


 以下、各章ごとに内容を。
 第一章は、「風流を求めて」と題し、園芸や花見、自然観について。園芸の部分がおもしろい。変化朝顔のように、技術的に高度に発展していたのは知っていたのだが、チューリップバブルのような園芸植物のバブルが日本でも起こっていたというのは、初めて知った。後は、時代ごとの流行の変遷や花よりもむしろ葉を観賞する傾向が強かったという話。花見に関しては、もともとは一本単位で楽しんでいたのだが、将軍などの主導で多数の桜を植えた名所が出現していくこと。花を見ることから、集団での宴会への変化などを指摘。当時はソメイヨシノのような一斉に咲く木はなかったわけで、ずいぶん違うものだったのだろう。個人的にはソメイヨシノはあまり好きではない。
 第二章は、行楽。信心にかこつけてといっているが、この時代には労働と余暇が分離していなかったことを重視すべきだろう。このあたり、アラン・コルバンの『レジャーの誕生』を読むべきか。行楽地の経営や盛衰といった話がおもしろい。ただ、この章、園芸とあんまり関係なくね?
 第三章は、江戸の自然環境。江戸が丘陵と海岸の低地の境にあるためか、斜面を中心に樹木が比較的多数残ったこと。また、過密な町民地はともかくとして、武家屋敷には庭園などの形で比較的緑が多かったことを指摘する。ただ、薪炭の供給など、木材資源は多数消費されただろうし、そのあたりの資源消費の観点からの調査が必要に思えるのだが。


 以下、メモ:

鑑賞の対象は必ずしも花だけでなく、樹形、葉、花とそれぞれに美しさを求めている。現代の愛好家たちはツバキの中でも、大輪、八重咲きなど大ぶりで華麗な花に魅かれ、そうした品種を求めるのに対し、江戸時代には、葉の形に特徴があるものや、斑入りや花に絞りが入っているものが好まれた。園芸品種という概念については共通するものの、人々が求めている美しさの質はかなり異なるような気がする。また、元禄年間に流行したカエデ類を見ても、葉の色や形が珍しいもの、「へりとり」「斑」などカエデ独特の性質を持つ珍品、奇品がもてはやされている。当時の園芸書『花壇地錦抄』では、葉一枚一枚を図解入りで説明し、カエデの葉形を図示した上で、性状を解説し、その名にゆかりのある古歌まで付記されている。つまり、樹形や枝ぶりなどよりも葉に高い関心が持たれていたことがわかる。園芸品種は、野生種の突然変異を品種化したものである。「何事にも派手好み」という印象が強い元禄時代、園芸の分野でももっと見栄えのする現代的な色や形を好みそう気がするが、このカエデ人気からは、元禄文化の意外な一面が見えておもしろい。p.26

 そう言えば、江戸時代の園芸って葉が重要だよな。どうしてなんだろう。色はともかくとして、葉の変化はずいぶん派手なような気がするが。

 アサガオの流行は文化年間で、メンデルが生まれる以前のことである。一年草であるアサガオの繁殖には、メンデルの法則上の原理を十分に知っていて、突然変異がどのように起きるかをも予測できていなければならない。したがって、それを熟知していた江戸時代の専門家の植物観察のレベルは、非常に高かったと言える。p.55

 変化朝顔というと、歴史民俗博物館のくらしの植物園が毎年のように展覧会をやっているが、図録を読んだだけでもものすごく手間がかかりそう。つーか、未だにメンデルの法則が分かった気がしない、情けない脳みそが…

 ただここで言えることは、江戸の庶民にとって、定期的に余暇を取らなければどうにもやっていけないほど仕事によるストレスがあったとは思えない。現代では国が余暇を取ることを盛んに奨励しているが、江戸時代にはおそらくそんなことはなかったであろう。町人や職人たちは仕事の時間内にもある程度の遊びを取り入れ、楽しんでいたものと考えたほうがよいだろう。つまり、働くことが原因で現代人のように疎外感を持つとか、精神的に病むというようなことはほとんどなかったのではないだろうか。長時間労働の苦痛や封建的な人間関係という苦労はあるものの、どうでも余暇時間を確保しなければならないという労働体制ではなかったということだろう。長時間労働ではあっても、適当に息抜きができ、仕事を楽しむくらいの余裕はあったのかもしれない。また、仕事のなかに「つきあい」を巧みに盛り込み、楽しむ工夫もしていたのだろう。p.125

 ただし、武士は除く。結構、側仕えなんかの武士は大変だったようだし。失踪とかもあったらしいし。
 このあたり山之内克子『ハプスブルクの文化革命』asin:4062583402が、啓蒙思想以前には余暇と労働の時間が截然と分かれていなかったと指摘するのと同様なのだろうな。仕事で出かける用事があれば、ついでに遊んだりとか。そのあたりの時間感覚ってのは現在のも引き継がれていて、のんべんだらりと仕事をするとか、就業時間が有名無実とか、残業を強要される見たいなことに繋がっているのだろう。

「江戸にはウーリッチやグリーニチもなく、聖パウロ僧院やウェストミンスター寺院もないし、エリーゼ宮やヴェルサイユもない、またパリーのプールバールやロンドンのリーゼント街のように見るべきものはない。実際、日本人の習慣と嗜好は、ヨーロッパ諸国の人々とははなはだしく異なっているので、比較してもほとんど共通する所がない。にもかかわらず、江戸は不思議な所で、常に外来人の目を引きつける特有のものを持っている。江戸は東洋における大都市で、城は深い堀、緑の堤防、諸侯の邸宅、広い街路などに囲まれている。美しい湾はいつもある程度の興味で眺められる。城に近い丘から展望した風景は、ヨーロッパや諸外国のどの都市と比較しても勝るとも決して劣りはしないだろう。それらの谷間や樹木の茂る丘、亭々とした木々で縁取られた静かな道や常緑樹の生垣などの美しさは、世界のどこの都市も及ばないであろう。」(『江戸と北京』ロバート・フォーチュン著・三宅肇訳、広川書店)という記述があるように、江戸の町は外国人の目には、緑の多い、美しい都市と映っていたようである。p.154

 都市計画という観点からはずいぶんと欧米や中国とは毛色が違うのは確か。江戸の都市というのは、小モジュールをモザイク状に組み合わせているような感じがある。そういう都市に、むりやりヨーロッパ風の都市計画を持ち込むからおかしいことになるんだと思うのだが。あと、「モザイク状」の都市というのは、自然発生的な集落には普通にありうるもので、中世初期のヨーロッパの都市なんかも、城と寺院と商人集落がそれぞれバラバラに存在していたりしたわけだが。

 江戸の人口密度は、異常に高く、町人地で673人/ヘクタール、武家地で168人/ヘクタール、寺社地で157人/ヘクタール(『江戸と江戸城』内藤昌著 SD選書 鹿島出版会)とされている。1992年の東京都区部の人口密度は129人/ヘクタール、もっとも人口密度の高い中野区で194人/ヘクタールとなっている。現代に比べても非常に高い密度である。そんな中で人々が本当に生活できたのかと思うくらいの密度である。
 町人地の人口密度は信じがたいほど高いが、大正9年(1920)の浅草区には543人/ヘクタールもの人口密度が示され、また、昭和5年(1930)にも500人/ヘクタールで住んでいたことが記録されている。この計算には、浅草区の面積に浅草寺などの江戸時代は寺社地として除かれた敷地が入っていると考えられる。このことから、町人地の人口密度673人/ヘクタールという数値は事実に近いものであったのだろう。人が多すぎて、息が詰まりそうな気がするがいったん住んでみると案外馴れてしまって、そう不自由には感じないのかもしれない。p.188

 ブラタモリに出てた長屋やら『看板建築』asin:4385359210で紹介されている商家なんかを見ても、水周りとか個人スペースがずいぶん小さいしな。そのあたりの常識の差というのは、大きいのだろう。プライバシーの感覚とか。