薮田實『武士の町 大坂:「天下の台所」の侍たち』

武士の町大坂―「天下の台所」の侍たち (中公新書)

武士の町大坂―「天下の台所」の侍たち (中公新書)

 大阪の武士、大坂城警固の武士や町奉行など幕臣達がどのような存在だったかを追及している本。興味深くはあるのだが、新書としては読むのに苦労した感じが。こちらの体調の問題もあるのだろうけど。とくに「武士の町」の概念に対する考えを終章に回したのが、全体を読みにくくした感じが。
 大坂を「町人の共和国」「町人の都」と称する考え方へのアンチテーゼとして、「武士の町」という概念を対置し、近世の大坂において武士の存在がどのようなものであったかを追及している。終章と読み合わせると意図が分かりやすい。「町人の都」という言説が、大坂に赴任した幕臣達から発生したこと、近代に入り大坂城武家屋敷群が近代化のための用地として転用され、また前時代を否定するためか豊臣政権時代を強調するようになったことが、原因となっていることを指摘する。このあたり『「民都」大阪対「帝都」東京』あたりも読んでみる必要があるかもしれないな。大坂が幕藩体制の中での流通システムの中心だったことを考えれば、大坂を「封建体制」から遊離した「町人の共和国」と理解するのは明らかな誤りだろう。一方で、大坂に赴任した幕臣達が最初に「町人国」と理解しているように、武士の数が少なく、経済的にも圧倒されている状況もまた素直に認める必要があるのではなかろうか。また、あとがきで大坂の武士に関する史料が大坂の外にしかないという指摘も興味深い。「土着の武士」が大阪城奉行所の与力同心たちだけで、城代、町奉行、定番などの主要な武士たちが外部から赴任してきているのが、大坂の武士の存在形態を独特にしているように感じる。


 内容としては、大坂の武士を広く論じている。
 第一章は大坂にいた武士の人数の推定。まず、大坂城を警固する番方の武士たち。城代以下、定番、加番、大番、目付など一年交代で大坂城を警備する。これが大よそ3000人。それに町奉行大坂城の維持を担当する六役奉行などの行政を担当する役方が、600人ほど。大坂土着の武士で、行政の実務を担当する与力や同心が3000人、さらに各藩の蔵屋敷にいる武士たち。個々の蔵屋敷に駐在する武士は少数だが、90藩でおよそ1000人ほど。併せて8000人ほどと計算している。番方の武士は自由に出歩けないし、やはり大坂の武士の存在感が薄いのは否めないと思った。
 第二章・第三章は大坂の地誌書から大坂武鑑が成立するまでとその内容。武鑑が成立する程度には需要があったようだが、一方で訴訟などのときの待機場所である公事宿の配りものであったというのは、江戸のような大出版物にはなりえなかったということではないだろうか。
 第四章は1829-31年に西町奉行を務めた新見正路の『日記』と『御用手留』を素材に、町奉行の生活や業務などを明らかにしている。赴任と出迎え、巡見、人事、文人としての交際など。
 第五章は番方の武士の話。大坂城への出入りに鑑札が必要であったことや、城代・定番などの文人との交際など。
 第六章は与力のキャリアパスについて。大塩平八郎の反乱とそれを鎮圧する側に回った二人の与力の三人の与力の生涯を中心に。町奉行についていた与力である、大塩や内山彦次郎の昇進と活動。大塩平八郎汚職官吏の摘発や幕府の財政などにも活躍した内山の活躍。城付きの与力である坂本鉉之助と文人たちの交際や城付きの玉造定番与力が砲術にたけていたというのも興味深い。また、内山が幕府側からは「浪花三傑」として評価される一方で、大坂の町人からは「市中の困り者」といわれていた、評価の落差も興味深い。
 第七章は大阪での武士の生活を日記などをもとに再構成している。年中行事や食生活など。奉行や番方の武士が自由に出歩けなかった状況と代官が気楽に遊んでいた落差。大坂の陣の関連のある場所が長く記憶にとどめられ、幕臣達がそれらの故地をめぐり、独自の「記憶の共同体」を形成していた状況の指摘など。