片倉比佐子『大江戸八百八町と町名主』

大江戸八百八町と町名主 (歴史文化ライブラリー)

大江戸八百八町と町名主 (歴史文化ライブラリー)

 江戸の町名主を、草分け名主の高野新右衛門家の史料を中心に、再構成していく本。町名主の史料そのものが、あまり残っていなくて、江戸時代を通じて名主を務めた高野新右衛門家の史料は、希有なものであるそうな。
 しかし、都市住民と幕府の狭間に位置する町名主って、なかなかキツそうだな。特に幕府の支配の矛盾が深まってくる江戸時代後半には、板挟みで、権威が低下していくなか、業務量は増える一方。商売などをすることが認められず、収入は町からの役料と町礼(不動産取引や相続などの事務作業に対する手数料みたいなもの)だそうだが、それにしては金はそれなりにありそうだけど。中心部の草分け名主ともなれば、それだけの収入があったって事なのかねえ。
 かなり、事務仕事が大変そうだけど。


 巻末に高野新右衛門家の系図が掲載されているけど、江戸の上層市民と言っていい立場の人たちでも、乳幼児死亡率がかなり高いのだな。成人した男子は、かろうじて、甥を養子に取れば、外から養子を取らずに存続できる程度。


 前半は、「草分け名主」のプロフィールから、ごく初期の都市江戸の構築を追ったり、江戸の「町」の拡大を明らかにする。
 草分け名主は、その町を開いた由緒を持つ者たち。もともと土着の有力者たち、家康について東海地方から移ってきた人々、徳川家にさまざまな資材を供給する職人たちの統括者が、その町の設立・統治を担った。
 また、江戸の「町」は外延的に広がっていく一方、統治は町奉行・代官・寺社奉行と別れていて不便を来した。町人地の町奉行支配への編入が段階的に行われた。また、もともとの町も、大火にともなう広小路の設定や武家屋敷の設置などで、移動させられることも多く、そういう場合は替地を与えられた。
 寛永期までに町奉行支配下にあった町は、「古町」として、年頭参賀で将軍に挨拶したり、特別な祝い事の際に本丸で行われる能を拝見する御能拝見などの特権があった。これは、もともとの古町が移転して外縁部に移転した際にも引き継がれた。一方で、この特権のうまみは、後の時代には薄れ、辞退する町も出てきたというのがおもしろい。
 このような古町が300町ほど。その後、1662年にに300町ほど、1713年300町ほど、さらに1745年には寺社奉行支配下の寺社領の町々が町奉行支配下編入町奉行の支配の範囲が広がっていった。


 名主の業務は、触の伝達・徹底、土地の売買相続時の保証、人別改、町奉行への挨拶などがメイン。奉公人の逃亡、行き倒れや自害、捨て子などの対応、犯罪などへの対処などが、「言上帳」に記載された事項を控えた「日記言上之控」から明らかになる。
 また、名主たちは寄り合いや組合を組織して、町奉行などの諮問に答えるような仕事もあった。
 寛政の改革天保の改革では、町入用の削減のために名主の人数削減策にさらされたり。後者では、物価引き下げや風俗取り締まりなどの実務を担わされる。さらに、幕末になると、救貧事業である「お救い」の対象確定や町人たちの軍隊への組み込みの実務を担うことに。
 しかし、困窮による打ち壊しや集団で寄付を強要してそれを飲み食いする「お粥騒動」、さまざまな治安組織の乱立による治安悪化などに忙殺されつつ、幕府の消滅と名主の廃止へと進んでいく。
 明治維新による名主廃止のあとも、区長などの末端行政業務に採用されるものが多かったが、一方で、かなりの者が失業に直面するようになった。


 あとは、南伝馬町を始め、伝馬役を務める町の負担の大きさ。町単位で、賦課がまちまちで、伝馬役を務める大伝馬町、小伝馬町、南伝馬町の負担は非常に大きかった。それに対して、幕府は無利子ないし低利の拝借金や拝領地の供与、あるいは、利益が見込める請負で助成しようとした。一方で、三俣築立事業は、大きな赤字を出して、名主たちに、半世紀にわたる借金負担を課すことになった。その状況で、町と名主の間の関係が悪化したり。町奉行と名主たちの生臭い関係もあり得た。

元禄十二年(一六九九)、南伝馬町より一ブロック北の通町の「家屋敷売買の定」から名主の役得を抜き出してみよう。
 名主本人へ、売買される土地の間口一間につき銀一枚(目方にして銀四三匁、金一両は銀六〇匁)、樽・肴・扇子三本、名主妻へ五間口に金一両、名主子息一人につき五間口に金200疋(一〇〇疋は金一分)ずつ、名主手代へ一人あたり五間口に金一〇〇疋、御内衆中へ庭銭二貫文となっている。そのほかに町中への振舞金一〇両、礼金五間に二朱、五人組・町代・番人などへも支払わなければならなかった。p.107

 当時の不動産取得の大変さ。まあ、法的に連帯責任を負う存在だから、こういうものかな。