水谷三公『江戸は夢か』

江戸は夢か (ちくま学芸文庫)

江戸は夢か (ちくま学芸文庫)

 うーん、凄まじく時間がかかった。選書クラスの本に、一月半以上かけてしまうとは。最初の方はおもしろいのだけど、後半がものすごい尻すぼみ。刊行年代を考えるとしかたないのかも知れないが、マルクス主義的な歴史学に対する愚痴が続くのは苦痛でしょうがない。取り上げているトピックがおもしろいだけに、なんとももったいない話。前半の武士と英国貴族の基盤に関して、「武士は帰属で、貴族は所有」という鮮明な見取り図を提起しているだけに、落差が激しい。


 秩禄処分をめぐる森有礼吉田清成の論争を手始めに、日欧の「所有」に対する感覚の違いを炙り出す。秩禄処分を推進した側が、家禄を「サラリー」と考え、解雇するなら取り上げて当然と理解していたのに対し、ヨーロッパ流の法意識を身につけた森有礼は激しく反発する。家禄を世襲的な「財産」であると指摘し、それを多少の退職金で取り上げるのは、法に反すると主張する。
 このあたり、非常におもしろい。官職や各種の給付も世代にわたって行われれば、財産・権利として理解されるヨーロッパの所有権理解。不動産にしても、重層的な権利が当然とされる。16世紀だと、領主権とか、利用権とかが重なって、本当にわかりにくいんだよな。
 あと、本来、中世まで遡れば、「知行地」というのは、個々の武士が実力で確保していた土地を、上級権力が保証するという性格のものだったわけだから、理屈の上では、始原まで遡れば森の議論があたっていると思われるのだが。切米取はともかく、知行取りに関しては何らかの権益が補償されるという考えもありえた。
 しかし、武士の城下町への集住、豊臣政権以降の検地による土地所有権の一元化によって、武士の土地への権益は希薄化され、武士自身が、そのような土地への権利としてではなく、サラリーとして理解するようになっていたと。
 このような土地が権力財としての性格を持たず、単純な生計財としての性格のみを持つという法意識は、現在でも尾を引いていて、日本で都市計画が機能しないというところにもつながっているし、自由に処分できる財産として規制が設けにくいというところにもつながっている。
 むしろ、日本のほうが「封建」を早くに脱しているというのは、確かに言えそう。


 第二部は、民衆のほうにフォーカス。なんだけど、正直、こっちは大ブレーキだったな。
 第3章から5章までを占める。第3章は、読み書きの問題。日本の識字率が同時代としてはかなり高かったこと。また、儒学や心学の普及に見られるように、支配層から庶民層まで、おおまかに同じ学問文化が志向され、支配的イデオロギーに対する反発が少ないのも特徴であると。ヨーロッパでは、庶民階層は、古典などの学問などに積極的に反発する。日本も、21世紀に入って、そんな社会になりつつあるように思えるが。
 第4章は、人々の移動。ヨーロッパでは、主要街道でも人が少ない移動の少ない社会なのに対して、日本は頻繁に人々が移動するという点でずいぶん違うという。三都に大量の人口が流入し、人生段階での移動などが組み込まれていた日本に対し、ヨーロッパでは産業革命の時代になっても移動距離が低かった。現在でも、ヨーロッパは、階級などで住み分けが徹底している。また、日本では庶民が貨幣経済に適応し、賃金などの合理性によって移動していると指摘される。江戸時代の飢饉は、食料価格が上昇し、貨幣を持っていても買えないというのが実情だったと。江戸中期の「農村の荒廃」も、そう考えると、まったく違う姿に見えてくるな。
 最後が、一揆の話。幕府、特に現地の担当者が武力の行使をためらうようになった結果、一揆は、負担をめぐる条件闘争の一手段になったと。幕府に訴え出ることも、暗黙のうちに制度化されていた。イギリスの騒乱対処の方が、むしろ武断的だった。まあ、現地担当者が武力行使をためらうのは、そもそも江戸の行政そのものが、村の力量に依存していたからだろうな。村の指導層を潰したら、自分ではどうにも出来ない以上、なだめるしかなかったと。


 これらの、江戸時代の遺産によって、日本は「近代」にスムーズに移行できた。また、投票による代表者選定にしても、江戸時代から、ある程度公職者を投票で選ぶと言うことが行われてきた結果、スムーズに導入できたことが指摘される。
 今となっては、大体、こういう見方が常識化してきた。1992年だと、どうだろうな。まあ、こういう議論を展開するだけの、材料が存在していたことは確かだろうけど。


 第三部は補論。
 Aの「財産としての選挙区」がおもしろい。イギリスの19世紀あたりの選挙区の「売買」の話。相場とか、場合によっては全部ひっくり返されるリスクとか。
 Fの「全会一致のパラドクス」もおもしろい。全会一致は、かえって、少数派の意見が無視される。かつ、意思決定にコストがかかると。


 以下、メモ:

 下手な語呂合わせで気がひけますが、近代ヨーロッパの貴族は所有し、江戸の武士は帰属するわけで、その違いはいまだに尾を引き、所有に固執するヨーロッパのミドル・クラースと、組織に強い日本の中間(管理職)層との違いとなって残っているように思われます。こむずかしい議論は当面これくらいにして、江戸時代の日本では、下手に土地を所有すると武士の身分から転落しかねなかったという実例をまず紹介して、逆転ぶりを想像する一助にしていただきましょう。p.37

 所有に固執するヨーロッパ、組織に執着する日本。で、その「組織」がグズグズ担ってしまった日本人は、なにに執着することになるのでしょうね。

 このような行き方は、今日まで尾を引いているようです。戦後日本の都市行政を視察したイギリス人行政学者の一人が、公営住宅公団住宅の抽選による入居者選択を、行政の責任放棄であり、イギリスでは考えられないと批判したことがあります。余計なおせっかいの気味もありますが、住宅困窮度の違いに目をつぶって、くじで決めるのが公平だというのは、今なお変わらない行政の原則になっています。良しあしはともかく、均等化を主眼に細かに細分された土地と農民を、くじで分け与えられて満足するなどというのは、イギリスやヨーロッパの領主には考えられない事態であるように、くじ引き配分もヨーロッパ流の統治責任と、趣を異にすることは否定できません。p.47-8

 くじ引きで領地の配分が決まっていた日本。くじ引きが「公正」とされる、日本の公正観。
 公営住宅に関しては、そのあたりを適当にした結果、今となっては福祉としての機能が劣化しているようにも見受けられるが。

 このメーチニコフなる人物は、帝政ロシアによって国外追放され、政府側スパイによる監視まで付けられた名うての革命家でした。余談になりますが、帝政時代のロシアはイギリスやフランスの十倍以上の予算を諜報活動につぎ込んでいたといわれます。またスパイ組織の効用を帝政ロシアに教え、遅れたロシアを国際水準まで引き上げる際に、刺激となり参考となったのが、革命でのし上がったフーシェのフランス秘密警察でした。その帝政のスパイ・治安制度をさらに発展させたのが、革命ソ連だと言いますから、歴史はとかく皮肉なものです(R・ディーコン『ロシア秘密警察の歴史』心交社)。余談はともかく、その秘密警察から要注意人物とみなされた革命家を、それと承知で招聘して文部省の役人にした辺り、後に伊藤博文が札付きの森を文部大臣に起用したのと似て、明治の面目が踊っています。p.96-7

 諜報国家ロシア。でも、転覆したんだよね。で、その遺産が、ソ連に引き継がれ、プーチンのロシアに引き継がれたと。『ロシア秘密警察の歴史』、熊本市内の図書館には入っていないみたいだな。

 一〇年ほど前、イギリスから来たある学者と話したことがありますが、その際、日本の学者先生が労働組合の講師などに活躍されている様子を聞かされ、学者やインテリに対する不信感や隔絶意識が強いイギリスの労働組合では考えられない話だと、なかば感心し、なかば呆れた口調でつぶやいたものです。イギリスはミドル・クラースと労働者階級の「二つの国民」(Two Nations)から成り立っているというのは、一九世紀に言われ出したことですが、それが今なお健在に思える反応で印象的でした。p.110

 まあ、四半世紀たって、日本も割れてきている感があるが。
 次の段落では、ヨーロッパでは、学問教養をみにつけようとすると、労働者階級から排除されるという話も。

 これが見てきたような講釈師風の誇張でないことは、革命前夜のフランスをあちこち旅行したイギリス人「政治算術家」、アーサー・ヤングの旅行記に記された、フランス都市間幹線道路の寂しさと比べれば納得いきやすいかもしれません。道は広くて確かに立派に整備されていたものが多かったようですが、一日旅してもめったに人と会わない日々が少なくなかったといったくだりが、読む人の印象に残ります(『フランス紀行』法政大学出版局)。p.116-7

 へえ。でも道路が整備されていたということは、何らかの一時的な特徴なんじゃなかろうか…

 なお念のため一言くりかえします。江戸時代農村水呑み層の高い移動率を、領主階級による収奪や、外から無理やり農民に強制された商品経済による「窮乏化」の結果だとする解釈もまだ一部にはあるようです。つまり非道な領主や非情な経済力学によって追い詰められた農民が、生き延びるためや、封建的隷属から逃れて、一時的にせよ憂さを晴らすか、やむにやまれぬ経済事情から余儀なく逃亡した結果が、庶民の移動だというわけです。このような説明があてはまる事例がなくはなかったにしても、多くの場合史料は別の方向を、つまり都市部を中心とした労賃の上昇と農村部への波及、この相対的高賃金に応じた農民の合理的選択の方向を、指し示しているように思われます。p.123-4

 人口の移動が、都市部の賃金上昇に支えられていたという話。

 実務と「実情」
 餓死の解釈にも難しい問題がいくつかあります。一つは当時の公的記録の信憑性の問題でして、「行政当局」の作成した数字や説明、あるいは「行政当局」に出された数字や説明を、どこまで額面どおりにうけとってよいかという、一見周辺的に見えて大事な問題があります。
 「封建制」のもとで割拠する藩が、幕府の命令するお手伝いなどの負担を避けたり、なにがしかの有利な助成や取り扱いを受けるため、あの手この手を駆使して幕閣中枢の役人に働き掛けたこと、そのため、各藩は江戸留守居役(今日なら各都道府県などの東京事務所長)といった職務にある人間を中心に、様々な情報・陳情活動を展開したこと、これらは江戸の常識でしょう。ところで、「特別補助金」を引き出し、負担を軽減・回避するには、我が藩がいかに窮状にあるかを訴えることが大事な戦略のひとつになることは、今も昔も変わりません。
 そうなると、たとえば天災などの場合、どうしても被害を誇張し、時には捏造する誘惑にかられることになります。戦後の日本でも、水害に襲われたある自治体が、半壊ではたいした補助金を期待できないと、半分流れかけた橋に縄をつけてひっぱり、全部流してしまったという、笑うに笑えないはなしも伝わっています。似たことは江戸時代にも起こります。天災がくると、各藩は自分たちのところの被害を幕府に届け出る際、できるだけその程度を誇張するわけです。そのために最も印象的なテクニックのひとつが、餓死者数を水増しすることだったと考えられます。
 この点については、盛岡藩が幕府に出した人口報告と自藩内部用の人口統計数字のズレを扱った、アメリカ人学者ハンレー及びヤマムラ夫妻の研究(速水訳『前工業化時代の経済と人口』ミネルヴァ書房)が、説得的だと思います。これによれば、記録的大飢饉が東北地方を襲ったと言われる天明年間に、盛岡藩が幕府に報告した公式の死亡者は六万四〇〇〇人を越え、「人肉」を食べる人まで出る窮状だったとされます。たしかに宗門改帳(公式戸籍登録)に記載された人口は、幕府への報告と大筋で一致し、天明三年(一七八三)の人口約三〇万六〇〇人は、翌年に二四万六〇〇〇人へと劇的な減少を記録しています。ところが、藩が内部行政に用いたと思われる「藩日誌」によると、この間僅か二五〇人ほどですが、人口は逆に増加していることになります。
 いくら江戸時代の行政統計や行政実務が「前近代的」といっても、このズレは大きすぎます。考えられる「合理的」説明は、行政文書の使い分け、つまり幕府向け「実情報告」と「内実」との操作でしょう。これは何も幕府と藩の間だけで人口統計問題に限って起きた話と考える必要は全くありません。たとえば藩と出先との間でも起こりうることでしょう。今仮に、徴税効率で出世が左右される代官がいたとして、納税者抵抗にしろ他のなんらかの事情によるにしろ、期待できるほど税収を上げることができない場合を考えてみます。こんな状況にある代官が、自己の支配地位がいかにひどい状況にあるかを、藩中央に向け、過大な「作文」報告をしたとしても、私の常識からすれば、何の不思議もありません。
 勿論似たようなことは、この代官と支配地域の町や村との間でも繰り返されることでしょう。年貢や課役の軽減を図った百姓が、災害や凶作の被害を誇張する「作文」を役所に向けて提出するのは、「農家の不作話と商人の損のはなし」という諺の語るところです。行政実務担当者は実務の必要にあわせて、数字や実情報告を加工し、これに「支配」される庶民は庶民で、「実情」と「内実」を使い分けるわけです。
 今日でも、税務署に提出され残された中小企業や農家の申告書類だけを基礎に経済・財政状況を判断するなら、「日本資本主義滅亡前夜」という判断をする人が出てもおかしくないと思います。おかしいのは税務関係資料をそのまま鵜呑みに議論を立てる態度のほうです。この点では、江戸も今日も似たようなものですから、「作文」や「加工された数字」を振りかざして「農民困窮」や「階級分極化」を告発する歴史家の方々は、人が良いのか悪いのか、時々判断に迷います。p.129-132

「文書はそれによって利益を得るところに残る」というのが古文書学の常識だそうですが、その手前に「文書はその作成者に利益をもたらすように書かれる」という常識を確認する必要があるかもしれません。それはともかく、はなしを江戸日本に戻します。このように史料に「作文」はつきもので、それを読む歴史家の常識や均衡感覚が大事になるわけです。ところで当時の関係者は、純朴な歴史家とは違い、つねに作文に騙されていたわけではありません。たとえば盛岡藩の飢饉の餓死者数の場合も、幕府関係者がその間の事情を知らないで「欺かれていた」とのみ言えば、誤解です。その辺りの呼吸は、多少とも実務の経験さえあれば説明不要なのでしょうが、蛇足を加えます。p.133

 公文書のフィクション性。律令国家の文書でもそうだよなあ。
 江戸中期の本百姓の減少なんかも、ほんとのところどうなんだか。

 江戸にはなしをもどせば、むしろ飢饉や飢饉の「危惧」に応じて、一揆という活発な圧力行動を辞さない「人民」の動向が、このような津留めの背景にあったことも考えに入れる必要があります。一揆については次に触れますが。もう一点、幕府が自由な海外貿易を認めなかったことが、飢餓の遠因だとする主張について簡単に言及します。大量穀物輸送の比較的容易なヨーロッパとは違い(ドーヴァー海峡は泳いでも渡れますが、日本と大陸とではそうはいきません)、たとえ貿易が自由だったとしても、当時の輸送技術水準を考えるかぎり、飢饉対策としての穀物輸入は、あまり実質的な助けにはならなかったのではないでしょうか。p.137-8

 江戸時代に、自由に輸入ができたら飢饉対策になったか、ならなかったかという話。戦国時代には、加藤清正が麦を輸出して稼いでいたというし、貿易のルートができていれば、助けになったんじゃなかろうか。
 ヨーロッパでもそうだけど、輸入される穀物ってのは、当該地域の穀物全体のごく一部でしかない。しかし、それが流通市場に集中的に投入されることによって、かなり価格にインパクトを与えることができる。あれだけ、穀物市場が発展していた近世日本では、その影響力はかなり大きかったんじゃなかろうか。
 輸送技術水準といっても、プロイセンからイギリスに食糧を運ぶのと、日本と朝鮮半島の間の輸送と、困難さにそれほど差があるとも思えないのだが。

 どれほど民間に武具がありふれた存在だったか、それを物語る史料を一点だけ紹介します。「元和偃武」(全国和平)から二世紀を経た文政四年(一八二一)、紀州藩が領内の農村向けに出した触れ書きです。その中に、「農村に住んでいる帯刀を許された人間、および平百姓[普通の農民]でも祭りなどで着用するために所有している具足[鎧や刀剣、槍の類]があるようだが、これら武具を紀州の御城下で売るのは自由だが、決して他国に売らないように」と言っているくだりがあります(大意口語訳。「御法度書判取帳」平山行三紀州藩農村法の研究』吉川弘文館所収)。「祭りのためなら」武器一揃えがあってもよし、売るのも自由、ただし領外はだめ。これが江戸時代の常識でした。p.161

 「民俗武芸」とか、「芸能武術」というやつだな。
民俗武芸の旅
民俗芸能に伝承される武術 : 田山花踊りにおける「棒振り」を中心に(芸能化する民族スポーツ?芸能武術の人類学,シンポジウム,12 スポーツ人類学,専門領域企画)

 たとえば現在は大阪府羽曳野市に含まれる古市村の場合、文化五年(一八〇八)に行われた庄屋選挙で、二〇〇軒以上あった百姓家を対象に、一軒一票制の入れ札が実施され、その札が今も残されているそうです。なお、記名投票だったため女性も投票の権利を行使できたことがわかるとのことです。イギリスでも二〇世紀には入るまで、婦人の参政権は長い間認められませんでした。地方政治の場とはいえ、日本の婦人参政権、必ずしも外来でなかった事情も知られます(津田秀夫『日本の歴史 天保改革』小学館所収)。p.192

 へえ。伝統的に投票による意思決定があったと。とはいえ、候補の立て方とか、記名無記名の差は大きいと思うが。